Azuki堂だより

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2012年3月29日(木) 追悼 吉本隆明

巨きな人が逝きました。享年87歳。そして、2週間が過ぎました。

「おい、吉本の『共同幻想論』を読んだか。」「おお、あれは読まないとな。」教室の後ろの方からそんな会話が聞こえてきました。大学2年目の教室でした。
当時、多くの学生が読んでいたらしいことは耳に入ってきていましたが、店主にとっては「吉本隆明」は??の存在でした。1968年という時代のなかで、世の中のことに関心を持ち始めていた店主は、心中秘かに「読んでみようか」と、書店でなんとなくドキドキしながら手に取り、レジに持っていき、買い求めたという記憶がある。
さて、冬休みにじっくりと読もうと、その「共同幻想論」を開いたが、<序>を読み始めたがなかなか前に進まず、歯が立たない。柳田國男(民俗学)を知らず、古事記(古代史学)など無論読んだこともない浅学なものに理解することなど到底無理なお話であった。

 その後、「自立の思想的拠点」(昭和43年10月15日第8刷)を古本屋で購入し、よみはじめた。
巻頭の詩「この執着はなぜ」「告知する歌」の詩に引き込まれ、「自立の思想的拠点」、「思想的弁護論」「戦後思想の荒廃」「情況とは何か」の各評論が、なんとなくもやもやしていたものを非常にすっきりとした形で解いてくれたように思いました。以後、出始めた勁草書房刊・全著作集の「第13巻・政治思想評論集」(昭和45年1月20日第3刷)は店主にとって世の中(「世界」)を見る羅針盤のように思えました。
 (その著作集第13巻のなかの「労働組合運動の初歩的な段階から」にある4編は店主にとっては、社会に出てからのある時期、幾度となく読み返す、本当に身に沁みる文章でありました。)

 いくつもの追悼の言葉が新聞等に掲載された中で高橋源一郎さんの「吉本隆明さんを悼む」−思想の「後ろ姿」見せてくれた−(2012・3・19朝日新聞朝刊)がしっくりきました。
「吉本さんは長い間にわたって、多くの人たちに影響を与えつづけてきた。けれども、その影響の度合いは、どこでどんな風に出会ったかで、違うのかもしれない。」
「吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ。」

何度か挑戦しましたが、そのたびに跳ね返された!?「共同幻想論」にもう一度挑戦してみよう。と思います。
合掌

追記
3月27日朝日新聞夕刊に姜尚中さんの「吉本隆明を悼む」が載りました。吉本が1980年代に「いつの間にか大衆の欲望をフェテッシュに担ぎ回る消費資本主義のトリックスターに変貌」した。丸山真男と比べ、どちらが「無限の進歩と科学万能を信じて疑わない『近代主義者』なのか、瞭然ではないか。」
そして吉本の「思想的命脈は尽きていたのである。」と断じている。
 
急いで依頼された文章かどうかわかりませんが、言葉の使い方に少し違和感を感じさせる追悼文になっているように思えました。
いわく「大衆の実感に寄り添う吉本の思想が辿らざるをえなかった必然であった。それは大西巨人の言葉を使えば、『俗情との結託』といえるはずだ。」
「空前の原発事故を目撃しても、科学によって科学の限界を超えられると嘯(うそぶ)いた吉本に」など。

何か「吉本隆明」さんを巡って<乱闘>が起きるのではないかと予感させるような追悼の文章と感じましたが、いかがでしょうか。

2012年2月28日(火) 3周年 春はそこまで


 速い、速い、逃げる二月。
たいへんご無沙汰をしてしまいました。新年のご挨拶も申し上げずに、一月は行き、二月もあと一日。まだ厳しい寒さがのこりますが、春を呼ぶ三月も目前になりました。

 年明けとともに、神田神保町三省堂古書館「新春古書市」(1/22〜2/2)の準備。出品にあたり、ワゴンの上に棚をのせ、本を陳列することが古書市の鉄則だとか。で、何とか、棚箱18個を自ら作ったものの、そこで早や、息切れ!? 出品書籍の選択にじっくり取り組めず、案の定、売り上げは、??? 反省材料の多い、また、収穫の多い古書市参加でした。
 
 後半のレジ当番日「〇〇さん」と店主を呼ぶ声、元勤務先の後輩。ホームページを見て足を運んでいただいたようです。10数年ぶりの再会でした。今は図書館に勤めているとのこと。うれしい限りです。

 Azuki堂も、今日で開店3周年を迎えることができました。何とか生き延びることができています。
 学生時代の友人・先輩・後輩、元の勤務先の方々、古書店の諸先輩など多くの方に叱咤激励をいただきながらなんとか続けていられます。
「家が壊れる。何とかしないと」などといいながらも許容?してくれている家族にも感謝です。

 4年目に入るこの機会に思い切って、書籍の保管・作業の場所を探し求め、新たな気持ちで進めていきたいと思っています。

 先日仕入れた本から

料理は一生懸命になって作っていると必ず旨いものが出来る。仕事も同じである。
一生懸命の人間を裏切ることはない。人のすることは凡て思いの反映である。宇野千代
(帯に「幸福人生の天才が遺した不朽の言葉!」とありました。)

 Azuki堂にアクセスしていただきました皆様ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

 寒さは続いていますが、春はそこまで・・・。

2011年12月31日(土) 新しい年へ 希望

今年もあとわずかな時間が残されているばかり。
今日の、天声人語に安岡章太郎さんの随筆からの引用がありました。
「本が増え過ぎて嘆かわしいのは、家が狭くなることもだが、それを読む時間が自分にどれだけのこっているか、と考えるときである。」(「本の置き場所」)
 
 ネットの「ふるほんや」を始めてから、新しい年の2月で丸3年になる。仕入で増えた本に、狭い我が家も窮屈になっている。
 安岡さんが思うように、これから「どれだけの時間が残っているのか」を意識せざるを得ない年齢になりつつある。年を越えるごとに時間の過ぎるのが早く感じられる。
 
 先日、俳優の入川保則さんが亡くなられた。1960年代の前半にNHKテレビで、緒方洪庵の開いた「適塾」に集った血気盛んな青年たちの群像を描いたドラマに出演していた。福沢諭吉など幕末から維新にかけて「蘭学」を学ぶ青年塾生たちが新しい世界に挑むため必死に勉強する、まさに青雲の志を実現すべく多くの仲間と切磋琢磨する日々を、毎週わくわくしながら見ていた記憶がある。
  
 青春・朱夏・白秋・玄冬と人生を言い表すことばがあります。そろそろ、白秋の時を迎え、「時間がどれだけ残っているのか」。
 同世代の仲間と語りながら、まだまだと、いきたいものです。

 3・11の大震災、津波、福島原発災害が刻印された2011年が終わろうとしていますが、新しい年が「希望に満ちた」年であることを願いつつ。

皆様、今年もありがとうございました。     店主 敬白

2011年12月9日(金) うたのおばさん

 昨日の朝刊に松田トシさんの訃報。96歳、老衰で亡くなったとあった。
松田トシさんといえば1970年代前半にTVで人気のあった「スター誕生」の、歯に衣を着せぬ、手厳しい審査員であったとの印象をお持ちの方が多いと思います。

が、もうひとつ、私にとっては「うたのおばさん」の方が強く印象に残っています。
1955年(昭和30年)前後はテレビはもちろんなく、ラジオ放送をよく聴いていたように思う。小学校にあがる前から、母親と一緒になって聴いていたラジオ放送が「うたのおばさん」であった。
童謡、唱歌(ほかのジャンルがあったかどうかは思い出せない。)を、松田トシ、安西愛子の二人が交代で番組をやっていた。お二人に違いが有るかどうかも分からない年齢だったのでしょうが、メリハリの利いた、自信に満ちた口調はお二人とも同じであったことは幼いながらも感じていたと思う。
 
時々、ラジオ局から外に出て、いろんな場所(おもに小学校ではなかったか)で歌唱指導をしていた。
 それがいつだったのか、もう小学校にあがっていたときかどうかはっきりしないが「今日は、中央区立(?)水上(すいじょう)小学校に来ています。」と聞こえてきました。
 「すいじょう小学校?」水の上にある学校、水の上に校舎もグランドもあるのか。聞こえてきた響きに、どんなところか想像してもわからないままでした。何か普通の小学校ではないのかも、などと、その時感じたと思う。
 しかし、うたのおばさんが「今日は、水上小学校のお友達と、『花』を歌います」と言って
 「♪ 春のうららの隅田川」 から始まった合唱は子供心に「上手だなあ」と思わせたものであったことが「すいじょうしょうがっこう」の記憶とともに残っています。
 「水上小学校」が水の上にある小学校ではなく、当時はまだ、川や運河に艀(はしけ)や達磨船(だるません)の船上生活をしている家族がいて、子供たちが陸の小学校(全寮制?)に行っていたのだということは後から知り、なんだそういうことかと、なぜか、ほっとした気持ちになったことを覚えています。
 (ちなみに、東京都立水上小学校は1966年に廃校となっているようです。)

で、うたのおばさんの話。松田トシ、安西愛子のお二人とも音楽の基礎・基本を十分身につけて「おばさん」をやっていたのだなと思う。何事も「基礎・基本」はいつまでたっても大切ですね。 

最近、「題名」を思い出せず、なぜか気になっていたうたがあります。
野辺の送りに、松田トシさんへ

「歌の町」
♪よい子が住んでる よい町は 楽しい 楽しい 歌の町
花屋はチョキチョキ チョッキンナ 
かじ屋はカチカチ カッチンナ

♪よい子が集まる よいところ 楽しい 楽しい 歌の町
雀(すずめ)はチュンチュン チュンチュクチュン 
緋鯉(ひごい)はパクパク パックリコ

♪よい子が元気に 遊んでる 楽しい 楽しい 歌の町
荷馬車(にばしゃ)はカタカタ カッタリコ
自転車チリリン チリリンリン

♪よい子のおうちが 並んでる 楽しい 楽しい 歌の町
電気はピカピカ ピッカリコ
時計はチクタク ボンボンボン


2011年10月9日(日) 青空  10・8ショック  隔世の感

今日は、10月8日。あの日も今日のようなさわやかな秋の青空があった。
44年前、大学1年目の秋、サークルの親睦ソフトボールに若い学生たちが興じていた。野球が好きであった店主ももちろん参加し、楽しんだ。
 
その日は日曜日だと記憶しているが、何時頃であったか、高田馬場駅に電車が停車し、ドアが開くと、青いヘルメットをかぶった集団がホームに隊列をつくり座り込んでいるのが目に入ってきた。「なんだろうな。」と一瞬思ったが、ドアがしまり電車が動き出し、すぐにサークルの仲間と楽しい一日をすごせるなと二つ先の駅に着くとキャンパスに隣接のグラウンドに向かった。試合ではホームランを“かっとばし”、大いに青春とやらを謳歌していた。
 
当時住んでいた横浜の家に着き、夕刊(当時は日曜日にも発行していた)をみて、ソフトボールを楽しんでいた、ほぼ同じ時刻に同じ青空の下、首相の南ヴェトナム訪問阻止闘争が羽田であり、警備の機動隊とデモ隊の衝突のなかで、同じ18歳の大学1年生山崎博昭さんの命が失われたことを報じていた。衝撃であった。
 何事が起ったのか、理解するには長い時間がかかることになるが、その日以降、確実に何かが動き出し、人により時間の早い・遅いの違いはあっても、多くの人の心がざわめくようになったのではないだろうか。いわゆる10・8ショック.

 今日の青空を見て、不意に、「10・8(ジュッパチ)、か」と。

(ネットで「10・8」を検索すると、ウィキペディアの10・8決戦「1994年10月8日名古屋市ナゴヤ球場で行われたセ・リーグの中日対巨人戦最終戦」が最初に出てきます。
「プロ野球史上初めて公式戦の勝率が同率首位で並んだチーム同士の最終戦での直接対戦によって優勝チームが決定した。日本社会の広い範囲から注目された事象である。」  そういえば、決戦だという言葉が飛び交っていたように記憶する。バブル景気の余韻があった時期と記憶しているがどうであろう。
いずれにしても「隔世の感」があり、こちらも「ショック」。)

2011年10月8日、記す。

2011年9月11日(日) 古本屋 大塚弁護士 松川裁判

暑さがまだ厳しい日中ですが、朝夕は虫の音も聞こえ、秋だなと思わせる季節になりました。

2年半ほど前にAzuki堂開店のお知らせを知人、友人あてに、送りました。
おそらくハガキを手にされてすぐに電話をかけられたと思われます。
電話のベルが鳴り、受話器をとると名前も言われずに「お宅は何処にあるの、目印は何、4丁目のどのあたり」と、どこか聞き覚えのある声「はい、□□通りの○○の踏切の近くです」「新しくできた古本屋どこにあるの、行きたいんだけど」「すみませんお店を構えていないんです。自宅の2階で、インターネット販売だけなんです。」「何だそうか」とがっかりしたように言われ、「申し訳ありません。大塚先生ですね。ありがとうございます。」「ハガキを貰ったんだが」「店はないのです。本当にすみません。」と電話は終わりました。

大塚弁護士夫妻宛にも開店の案内をさせていただきました。
数日後、奥様からやさしく「すみませんね。インターネットとかわからないんですよ。古本屋が好きで、近くにできたと思い、行くつもりにしていたんですよ」「いえいえ、私の方こそ、案内が不十分な書き方で、先生によろしくお伝えください。」

20数年前に、娘の通う「学童保育」の問題をめぐり、市長選挙の運動に関わった時に奥様の知己を得、その後地域での関わりを続けていく中で、大塚一男弁護士がご主人であることを知ることとなります。
 そんな経緯のなかで、1989年に著書「私記 松川事件弁護団史」(日本評論社)を奥様を通じて、いただきました。地域で「私記 松川事件弁護団史」出版記念の会があり、会の企画者から比較的若い層を代表して、本を読んだ感想を述べよと要請があり、必死でメモをとりながら、当時は8〜9文字しかないディスプレイの「オアシスワープロ」に打ち込んだことを思い出します。
 1949(昭和24)年に起きた松川事件のことは、前年(昭和23年)に生まれた者にとっては、小学生時代に「松川事件」判決などを新聞で「バール」「アリバイ」「自白」などの言葉をおぼろげに覚えているぐらいで、事件については学生時代に戦後史を学んだときにようやく把握できた程度であります。
 
<60年代から70年代にかけての時代状況の中で「松川事件」はあまり論議されていなかったのではないだろうか。1963年9月12日の最高裁で検事上告を棄却・無罪判決が確定したのちであってみれば、あまり話題にならなくなっていたように思えます。>

「弁護団史」の感想では、松川裁判に文字どおり「全力」を注いだ廣津和郎の「散文精神」
―「それはどんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通していく精神――それが散文精神だと思います。」を知り、「弁護団活動をかえりみて」「弁護団の原則的方針」「歴史の教訓」「運動発展の条件」などの文章から貴重な14年間の松川弁護活動の総括を勉強させていただきました。
大勢の人びとが関わる際の組織の在り方、運動の進め方など改めて学ぶことができたように思えました
 
歴史的にも大変重要な役割を果たされた大塚一男主任弁護人の著作を浅学非才なものが感想を述べるという、冷や汗ものの機会でした。

9月4日、朝日新聞では次のように伝えました。
「大塚一男さん(おおつか・かずお=弁護士、松川事件主任弁護人)3日、肺がんで死去、86歳。 (中略) 喪主は妻ます子さん。
 1949年8月、旧国鉄・東北線で起きた列車転覆をめぐって、労組幹部ら20名が逮捕・起訴された松川事件で、63年の最高裁判決で全員の無罪が確定するまで、弁護団の中軸として活動した。」

「松川裁判から、いま何を学ぶか―戦後最大の冤罪事件の全容」(福島大学名誉教授・伊部正之 著・岩波書店・2009年)に「主任弁護人であった大塚一男弁護士の一連の著作『私記 松川事件弁護団史』(1989年)『最高裁調査官報告書』(1986年)『松川弁護十四年』(1984年)等は、松川裁判と刑事弁護に関する貴重な総括と問題提起を行っており、松川裁判研究の必読書である。」と画期的な意義をもつ文献として紹介されています。

6日の通夜は、好きだったという映画「阿弥陀堂だより」(故郷の飯山が舞台)の音楽が静かに流れる中、業績をたたえ、人柄をしのぶ、後輩の弁護士さんが弔辞を述べ、ひまわり(弁護士バッジのモデルだそうです)を献花してお別れしました。 合掌

2011年7月31日(日) 夏のフェアお知らせ

 5月以来、長い間、途絶えてしまいました。

とりあえず、お知らせ。

 7月30日〜8月31日まで三省堂神保町本店1階で開催される「絶版品切 文庫・新書 古書フェア」出品の納品・陳列を29日午後7時半から行いました。
 
今回、出品しているのは、「ジグソーハウス」、「プリシアター・ポストシアター」、「BIBLOSの本棚」、「獅子ヶ谷書林」そして「Azuki堂」の5店舗。

いずれのお店も、質の高い良いものを出品されています。(Azuki堂は除いて!?)
 
 Azuki堂も「絶版品切」の看板のものがすべてではありませんが、現代教養文庫、講談社学術文庫、ちくま文庫、岩波文庫などを出品しております。

懐かしい本、読みたかった本に出会えるかもしれません。この夏の読書計画の片隅に置いていただけると大変うれしく思います。

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