積ん読雑記

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2012年8月30日(木) ミステリーの魅力・・・倒叙手法の面白さ(No.76)

F.W.クロフツ(加賀山卓朗訳)『クロイドン発12時30分』(ハヤカワ文庫)

ミステリーにおける「倒叙」、読者に対して初めから犯人を明らかにしてしまうこの手法はオーソドックスな推理小説の筋立て、すなわち犯人探しや謎解きを逆手にとった物語の展開であり、斬新なイメージがある。しかし、その起源は古い。ちょうど百年前、1912年に英国の推理作家リチャード・オースティン・フリーマンが『歌う白骨』という作品ではじめて倒叙手法を用いたとされる。(同作品は創元推理文庫・フリーマン『ゾーン博士の事件簿』に所収)
この手法は、一般には(熱烈なミステリーファンを除けば)小説よりは『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』などテレビ番組でおなじみのものである。活字媒体よりむしろ画像媒体においてインパクトが強いかもしれない。「完全犯罪」の小さなほころびが次第に露呈して行き、追いつめられる犯人の微妙な心理の変化、それを追及する主人公たる刑事や探偵の名推理。すぐれた俳優にかかれば、その瞬時の名演技が視聴者をまたたく間に作品の世界に引き込んでしまう。まさに映像の力そのものだ。論理的な構成を求められる小説の場合、映画やテレビと同様の効果は容易には得られない。作家の真価が問われるところでもある。
クロフツによる本作品は典型的な倒叙手法によって描かれている。主人公チャールズ自らが経営する会社は折からの不況下で存続の危機に瀕している。叔父と父親から継いだ会社であるが、個人的にもチャールズはどうしても会社を存続させなければならない理由がある。最愛のガールフレンドを失いたくないからである。もしチャールズが会社を失うならば、金銭欲と名誉欲が旺盛な彼女は直ちに彼から離れて行くことだろう。この会社の創立者であり今は引退している大金持ちの叔父だけが頼りだ。しかし、厳格な叔父からの資金援助は到底叶わない。そんな時、チャールズの心に悪魔が忍び寄る。叔父さえ居なくなれば。チャールズは叔父の財産相続人でもあるのだ。そこから始まる犯罪計画と実行、そして無実を勝ち取るための周到な準備。チャールズの心理描写とともにクロフツのストーリーの展開は見事であり、読みながら先へ先へと読者自身の目を急がせる迫力がある。本作品が書かれた1934年、戦前の時代は、まだわが国では探偵小説による犯人当て・謎解き主流の時期であった筈である。
その頃にこのような本格的な倒叙推理小説が生まれたところに、かの国のミステリーにおける先進性を認めざるを得ない。

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