積ん読雑記

最新7回分

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2012年11月30日(金) 書き出しの呪縛(No.77)

川端康成『雪国』(新潮文庫)

『雪国』の書き出しを「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」とそらんじる人が少なくない。なぜ、「そこは」がまぎれ込むのか? ずっと疑問に思ってきた。
この文は接続詞「と」を挟んだ複文であり、前後で主語が異なるが、そのいずれもが省略されている。そこにミソがあるように思える。これが英語だとどうなるか。サイデンステッカーの英訳は以下のとおり。
「The train came out of the long tunnel into the snow country」。
基本的に主語をたてる必要のある英語訳では原文にない「Train」を主語にもってくるとともに、主語を一本化させている。主語の省略がたやすい日本語は、とりわけ小説の場合はむしろその方が趣きが出るとも言える。しかし同時にそれは文の不安定さにもつながる。善意の読者はおそらく、本能的に文の座りのわるさやリズム感の欠如を感じとって、図らずも「そこは」を滑り込ませることによって文の補正を行なっているのではないだろうか。
老年の域に達した川端しか知らない者にはただの無口な年寄りにしか見えないが、岡本太郎によれば、岡本一家が避暑のために逗留した鎌倉の旅館に若き川端はしばしば現れ、一平・かの子を相手に熱っぽい調子で数時間もひとり喋り続けたという。そんな情熱と知性に溢れた俊英には文章表現の効果など先刻承知のことだったろうし、感性の産物たる小説につまらぬ言葉論議など無用なのだろうが、いつも気になって仕方がないのである。
「国境の長いトンネル・・・」はこの作品を読み解く上でも象徴的だ。主人公の無味乾燥な日常性からトンネルを抜ければ、そこは美しい山々と白銀の世界。主人公・島村にとっては現実を忘れさせてくれる夢の世界がそこにあった。島村が惹かれる駒子と葉子。対照的なふたりは島村の内面をも暗示させる。東京が待つ現実と非現実のような雪国の世界。余韻のある結末はその後のストーリーを読者それぞれにゆだねる。私の貧しき想像力はつい島村の夢落ちを考えてしまうが、それは決してあってはならない。この名作は、もうひとつの続きの物語を考えよ、という川端からのメッセージであるかもしれない。

2012年8月30日(木) ミステリーの魅力・・・倒叙手法の面白さ(No.76)

F.W.クロフツ(加賀山卓朗訳)『クロイドン発12時30分』(ハヤカワ文庫)

ミステリーにおける「倒叙」、読者に対して初めから犯人を明らかにしてしまうこの手法はオーソドックスな推理小説の筋立て、すなわち犯人探しや謎解きを逆手にとった物語の展開であり、斬新なイメージがある。しかし、その起源は古い。ちょうど百年前、1912年に英国の推理作家リチャード・オースティン・フリーマンが『歌う白骨』という作品ではじめて倒叙手法を用いたとされる。(同作品は創元推理文庫・フリーマン『ゾーン博士の事件簿』に所収)
この手法は、一般には(熱烈なミステリーファンを除けば)小説よりは『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』などテレビ番組でおなじみのものである。活字媒体よりむしろ画像媒体においてインパクトが強いかもしれない。「完全犯罪」の小さなほころびが次第に露呈して行き、追いつめられる犯人の微妙な心理の変化、それを追及する主人公たる刑事や探偵の名推理。すぐれた俳優にかかれば、その瞬時の名演技が視聴者をまたたく間に作品の世界に引き込んでしまう。まさに映像の力そのものだ。論理的な構成を求められる小説の場合、映画やテレビと同様の効果は容易には得られない。作家の真価が問われるところでもある。
クロフツによる本作品は典型的な倒叙手法によって描かれている。主人公チャールズ自らが経営する会社は折からの不況下で存続の危機に瀕している。叔父と父親から継いだ会社であるが、個人的にもチャールズはどうしても会社を存続させなければならない理由がある。最愛のガールフレンドを失いたくないからである。もしチャールズが会社を失うならば、金銭欲と名誉欲が旺盛な彼女は直ちに彼から離れて行くことだろう。この会社の創立者であり今は引退している大金持ちの叔父だけが頼りだ。しかし、厳格な叔父からの資金援助は到底叶わない。そんな時、チャールズの心に悪魔が忍び寄る。叔父さえ居なくなれば。チャールズは叔父の財産相続人でもあるのだ。そこから始まる犯罪計画と実行、そして無実を勝ち取るための周到な準備。チャールズの心理描写とともにクロフツのストーリーの展開は見事であり、読みながら先へ先へと読者自身の目を急がせる迫力がある。本作品が書かれた1934年、戦前の時代は、まだわが国では探偵小説による犯人当て・謎解き主流の時期であった筈である。
その頃にこのような本格的な倒叙推理小説が生まれたところに、かの国のミステリーにおける先進性を認めざるを得ない。

2012年6月4日(月) 井上ひさしの真髄、ユーモアとペーソス(No.75)

井上ひさし『手鎖心中』(文春文庫)

40年も前の直木賞受賞作であるが、今もその新鮮は衰えることない。エンターテインメントの面白さの中に漂う切なさこそが井上作品の特徴であるとすれば、本作品にもそれが存分に発揮されている。江戸・大店の若旦那のはかない夢を追う、ユーモラスでありながら物悲しい筋立ては、人間社会の機微をユーモアとペーソスで描くこの著者ならでは味わいである。ここには江戸の話にふさわしく、幇間が登場するが、この幇間、タバコの煙をおもしろおかしく吐き出す得意技を披露したあと、無理な芸がたたって体調をくずし、厠で苦しみながら次の本音を吐露する。「食うために煙草を喫ってその煙草のせいでせっかく食ったものを吐き出してるんですから世話はありませんや」。愉快さと表裏の悲哀、井上ファンが魅了されてやまないところだろう。
日本橋から始まって浅草、深川そして向島まで八箇所の江戸の街々をめぐりながら、現代に名を残す江戸文化人たちがオールキャストの如く登場する楽しさを読者は何気なく享受してしまうが、著者の博識ぶりをあらためて感じさせもする。
かつて井上は「辞書は引きものでなく読むものだ」と言っていたが、井上らしい同音異義語の言葉遊びなどは面白い。「言葉についちゃア妙な癖がある。たとえば、向学という言葉を聞くか言うかするとする。途端におれは、好学、後学、皇学、高額、講学、鴻学、溝壑⋯⋯というように同じ音を持った違う意味の言葉を思い浮かべてしまうんだよ」
また、娯楽小説の書き手としての痛みも伝わってくる。「戯作では食べていけませんよ」とか「人をおもしろがらせるために書くということは辛いことだ」などは登場人物のせりふながら、著者の心情が垣間見えるような気がする。
今回何十年ぶりかで読んで私がとんでもない記憶違いをしていたことが分かった。若旦那が最後は大川(隅田川)に身を投げたと思い込んでいたが、勝手にストーリーを改ざんしていたのである。果たして本当の結末は? 

2012年3月19日(月) 偉大な生活者であった偉大な思想家・吉本隆明氏(No.74)

3月16日、NHK朝7時のニュースで吉本隆明氏逝去の報が伝えられた。突然の訃報に驚きとともに、言い表しようのない無色透明な不思議な静けさが胸の内を占めた。同日未明2時過ぎに亡くなられてわずか5時間後の第一報というメディアの対応の速さも印象的であった。吉本氏には当店のPR誌『ことのは』にご執筆いただいたことから、四年まえの初夏から秋にかけて数回お目にかかる貴重な機会を得た。最初はとても緊張しながらご自宅をお訪ねしたのだが、実際にお会いしてみるとあの硬質な著作からは想像できないほど気さくな方であった。お会いしたらどんなお話をしたらいいのか、会話が行き詰ったらどうしようかなどと今思えばつまらない心配をしたが、楽しく勉強になるお話の数々に時間の経つのも忘れて図々しくもいつまでもおじゃまをしてしまったことが思い出される。
学生時代、すごい本があると聞いて『共同幻想論』を手にしたのが氏の著作との出会いであった。私にはたいへん難しい本であったが、それまで読んだ本とは全く違う世界がそこにはあった。どれほど内容を理解出来たかは正直疑わしかったが、著者の真剣さ、切実さ、熱意がこれほど伝わって来る書物は初めてであった。その後、現在に至るまでの圧倒的な著作の大群について行くことは容易ではなかったし、私が良き読者であったという自信もない。しかし、リアルタイムに起こる事象や生き方に関する氏の「情況への発言」がどれだけ私の指針になったか計り知れない。同時代の言論が古典に優るとすれば、まさに生きた羅針盤のごとく我々に方向性を示してくれることにあると思う。私にとって吉本氏はそのような存在であった。
吉本氏は偉大な思想家であったが、それにも優る偉大な生活者でもあった。近所の商店で買い物かごを手に品定めをしている写真があるが、それは氏の実像に最もふさわしい。下町で生まれ下町で育ち、最後まで下町の生活を愛した人。健康にすぐれない奥様を支えながら、ふたりの娘さんを育て上げた人。知の巨人はすぐれた市井の人でもあることを私たちに身をもって示してくれた。あの膨大な仕事をこなす一方で良き生活人であったことこそ最大のすばらしさであったと思う。
同時代人としてもはや氏の言説を聞けないことは寂しさ以外の何ものでもないが、これからはあの果てしない知の森を探検しながら、私なりに何かを見つけ出さねばならない。それは途轍もなく困難な仕事であるのだが。
 ありがとうございました、吉本さん! そしてこれからもお世話になります!

2012年3月9日(金) 選ばれし者たちの中の天才の軌跡(No.73)

椎名龍一『名人を夢みて(森内俊之詳小伝)』(NHK出版・2008年10月第一刷発行)

先日、3月2日NHK衛星放送で「将棋界の一番長い日」(A級順位戦最終局)が今年も放映された。将棋界はいろいろなタイトル戦があるが中でも最も権威と伝統をもつのが名人戦である。今は賞金額の大きさにより竜王戦が最高位と称する場合もあるようだが、歴史的には名人位の右に出るものはない。その名人位挑戦権をかけての10か月近くに亘るA級10人による戦いの最終局の放映を毎年楽しみにしているファンは少なくない。順位戦はA級、B級1組、2組、C級1組、2組の計5クラスから構成され、現在(順位戦に参加しないフリークラス棋士を除く)計124名が鎬を削っている。しかし、名人位挑戦権を得るためには必ずA級で最高戦績をおさめなければならない。プロ棋士になってもC級2組からスタートするから名人位挑戦までに少なくとも5年かかる。この順位戦の壁があるからこそ名人位は意味あるものになる。たまたまその年に調子が良い新人がいきなり名人位を奪取する仕組みにはなっていない。その将棋界最高位たる名人位に現在あるのが森内俊之である。1970年前後生まれの世代は現在の将棋界を担う実力者を輩出し、「羽生世代」と呼ばれている。羽生と同じ70年生れの森内もその中に含まれていて、両者はすでに小学生時代から宿命のライバルとして戦って来ている。羽生世代と言われるように、知名度では羽生に先行され実績的にも羽生の後塵を拝して来た感が否めない森内だが、名人位を通算5期取れば権利を有する「永世名人」の称号を先に獲得したのは森内であり、それが何よりも羽生に劣らない実力を証明するものでもある。
本書を読むと森内にとって将棋こそが天職であることがよく理解できる。母方の祖父はプロ棋士として活躍したが志半ば、森内が生まれる10年前に40代の若さで他界した。「父の指が奏でるやさしい駒音」を子守唄代わりに育った母から受け継いだ将棋のDNAが名人森内を誕生させたと言うべきであろうか。外で遊ぶのが好きであった森内少年が「どしゃぶりの雨」の日、たまたま同級生が休み時間に始めた将棋への出会いが運命の扉を開いた。またたく間に将棋に熱中し始めた森内を見て、母は亡父の門下生が講師をしていた教室に通わせ、本格的に将棋への道を歩み始めたのである。ある日、森内は祖父の将棋日記を見つけてしまった。そこには未完の棋譜が残っていた。少年は将棋盤上にその棋譜を再現した。そして彼も「祖父に倣って、対局の記録の後半の空白部分」を記したのである。
後年、森内は「おじいさんの大事な日記を汚してしまって」と頭をかいたそうだが、おじいさんはきっと棋譜の完成を喜んでいることだろう。本書の後半の森内の実戦棋譜解説は将棋ファンが読めばいいが、前半に万歳されているほほえましい逸話の数々は誰にでも楽しめる物語である。

2011年12月23日(金) 忘れられたもう一人の雄(No.72)

増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)

力道山をリアルタイムで知る人は今や少ない。同時代を生きた現在五十歳台以上で力道山を知る人は皆、あの強さと比類なき存在感の大きさを今も記憶の底に焼きつけていることだろう。昭和29年、その力道山と初代プロレス王者を賭けて戦った男が木村政彦であった。片や相撲界出身の力道山に対して木村は柔道界で「鬼の政彦」と恐れられ、柔道史上最強の男とも呼ばれた。後年、極真空手の大山倍達をして「(木村なら)ヘーシンクもルスカも三分ももたない」と言わしめた。東京五輪で日本柔道のプライドをズタズタしたあのヘーシンクでさえ敵わなかっただろう木村とは何者なのか? その「最強の男」木村政彦がもろくも敗れ去った力道山との決戦はなんだったのか? さらに両者を取り巻く戦前・戦後史が縦横無尽に語られる内容には、格闘技好きならずとも興味は尽きない。まさにミステリーにも似た面白さがある。
私は昭和29年の「巌流島の決戦」はテレビで紹介される古いフィルムでしか見たことがないが、この本を読むまでこの試合の意味するもの、そしてこの試合がその後の格闘技の歴史を決定づける転換点であったことを知るすべもなかった。力道山はそれ以降、昭和38年に不慮の死をむかえるまでの十年足らずの間に日本のプロレス界の輝かしい黎明期を築き上げた。一方の木村は、「力道山に負けた男」の汚名を着せられながらも平成5年、75歳まで家族と弟子たちに見守れられながら生きた。それでもあの敗戦は若い頃から勝つことにこだわり続けた木村にとっては大きな心の負債であったにちがいない。「力道山に騙された」木村は「力道山を刺し殺すために短刀を持って付け狙った」という。しかし、これは力道山への恨み以上に「自分に対しての情けなさの捌け口を求めた」ことを意味する。木村が晩年、故郷熊本の川辺で、「『力道山を殺す』と言って短刀を手にしたときから、煉獄の苦しみを見てきた愛妻に『これでよかったよね』」と言う場面は木村の万感の想いを読者にも喚起させることだろう。月刊誌『ゴング格闘技』に3年半にわたり連載され、単行本では実に上下二段、700頁に及ぼうとするこの長編は、一格闘家の足跡を辿る記録を超えて人間の一生を考えさせられる力作である。

2011年11月11日(金) 天才が神輿に見たもの(No.71)

三島由紀夫「陶酔について」(講談社文芸文庫『三島由紀夫文学論集U』所収)

三島由紀夫は31歳の夏、目黒区自由が丘・熊野神社の祭りで初めて神輿を担いだ。それは「幼児からの夢」であったのだが、それに必要な「体力」と山の手育ちは神輿を担がないという「社会的慣習」によりそれまで機会がなかったという。下町育ちの私には山の手のその社会的慣習なるものがよく分からないが、三島の場合はこの少し前に始めたボディビルの成果が出始めたころであり、慣習よりも何よりも人並みに体力をつけた自信がさせた行為であると考えるのが自然であろう。下町の人間であっても頑強な者ほど神輿の担ぎ手にはふさわしく、体力こそがこの「仕事」にはもっとも必要な条件である。
 それまで他人が担ぐ神輿を傍からしか見ることの出来なかった三島は、その中に熱狂と陶酔とを見出していた。「私は他人の陶酔を黙って見ていることはできない。・・・・・・どんな種類の陶酔も味う資格が私にはあり」、「静かな知的確信が何ものをも産まず、もっとも反理性的な陶酔ともっとも知的なものとを繋ぐ橋だけが、何ものかを生むのだと私は考えた」。
そして三島は続ける。「・・・・・・ここまで書いて私は失笑せざるを得ない。こんなことを考えて神輿を担ぐ大袈裟な滑稽な男は、一体どんな面(つら)をしているのであろう」。ここで私も思わず笑ってしまった。勿論、蔑みではなく文章の巧さとユーモアに参ったからである。深夜の書斎で原稿を書きながら、人前で見せたあの豪快な高笑いではなく、ひそかな忍び笑いをしている三島の姿が目にうかぶ。
 「幼児から私には解けぬ謎があった。あの狂奔する神輿の担ぎ手たちは何を見ているのだろうという謎である」。その謎を三島は自らの体験から、「青空を見ている」と解く。そして彼らの陶酔を「肩にかかる重み」と「懸声や足取のリズム感」との「不思議な結合」にあるのだと知る。重い神輿が肩にくい込む苦しさに陶酔を見る感性は言われてみればその通りと思うものの、並の感覚では及びもつかない。まさに三島美学の真骨頂と言えるだろう。「すべてのものに終わりがあるように、神輿の渡御にも終わりがある。・・・・・・彼は今日の晴れた一日に、その凶暴な力を以てしても破局の到来しなかったことを、不満に感じているのかもしれない」。この結びの文の続きは14年後に自らの行為によって達成しようとしたのかもしれない。
 小説とはまた趣きの異なる装飾の少ない随筆は名文を学ぶに最適の教材でもある。 

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