積ん読雑記

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2008年5月14日(水) 絶望を乗り越えるもの、それは希望(No.1) 

沢木耕太郎『凍』(新潮社)

この本は世界的登山家、山野井泰史・妙子夫妻のヒマラヤの高峰・ギャチュンカンへの登頂とそこからの生還を描いた闘いの記録である。このように言うと、登山家の単なる冒険記と思われるかもしれない。しかし、ここに書いてあるのは単なる登山の話ではなく、それを超えた人間の物語である。人が何かを成し遂げるということは何か、大自然に立ち向かう人間の非力さと偉大さ、それらがこの300頁の本の中にちりばめられている。
登山も競技の一種であるとすれば、他のスポーツとの決定的な違いが二つあるだろう。一つは観衆がいないこと。もう一つは小さなミスでも一瞬にして死が待ちかまえていることである。孤独と危険、登山家にとってはそれこそがこの上ない魅力であるに違いないと推測出来るが、高度八千メートルにも達しようかという氷山の絶壁を孤独と闘いながら昇り降りすると考えただけで私などは足がすくんでしまう。しかし、泰史は山に登るために生れて来たような少年である。11歳で初めて体験した南アルプスの北岳の山登り以来、「家でも学校でも山のことが頭を離れなくなり」、小学校の卒業文集には将来の夢として「無酸素でエベレストに登る」とまで書くほど山は彼の人生そのものになった。一方、妙子の山との出会いは高校三年生の時であったが、「女性クライマーとしては抜群の体力」と「山行のすべてが面白かった」彼女もまた、すぐに山の面白さにとりつかれてしまった。
この最強のペアが挑むヒマラヤの峰。いくつもの難関を克服しての登頂。しかし最大の危機はその直後にやって来た。ふたりの下山を襲う雪崩!宙吊りになった逆さまの妙子!切れ掛かるロープ!最悪の天候の中での凍傷と視力のきかないふたり!「このまま死ぬのかな」絶体絶命のピンチを救うものは何か!
登山に興味有る人も無い人も必ずや感動を覚えるであろう、おすすめの1冊である。

2008年5月21日(水) 60年代への挽歌とポスト団塊世代へのメッセージ(No.2)

 石川好『60年代って何?』(岩波書店)
 
本書は60年代を起点に、現在に続くここ40年余りの世界の潮流(と言っても殆ど日本とアメリカであるが)を実にコンパクトに分かりやすく、しかも客観的に纏め上げている。著者は1965年、高校卒業直後にアメリカに渡り、4年間農業に従事、帰国後1970年に日本の大学に入学した。
60年代の世界を席捲した「アメリカ発の学生による“世界同時多発”革命」を本家アメリカで目の当たりにしたことは何よりも変えがたい経験であったに違いない。「ラブ・アンド・ピース」すなわち「性の開放」と「反戦」のアメリカ60年代が語られる時、具体的な体験談は大いに説得力をもつ。60年代のアメリカの「革命」と
その後の「反革命」、「ベビーブーマー世代」のクリントンと息子ブッシュの登場の背景説明は極めて明解であり、マクロなアメリカ史を知るに充分である。
但し、それは同時進行していた日本の学生運動の昂揚期を見ていないことも意味する。アメリカの4年間は(おそらく、よそ者のアジア人として)「観察者」であるに過ぎず、日本に学生として戻った時には既に「学生運動は急速に衰退」していた。アメリカでも、そして日本においても同世代が最も過激に行動していた時期に彼らと時代を真に共有し得なかったことが、優れて冷静な分析をもたらしている反面、著者自身のダイナミックな考え方が見えて来ないことにも繋がるのかと幾分の物足りなさを感じながら読み進んだ。
しかし、末尾の総括部分に到り、そんな疑念は払拭させられた。注意深く読めば、“まえがき”及び“あとがき”が相互に呼応しつつ著者の主張が明瞭に述べられているではないか。昨年還暦を迎えた著者にとって、この本の趣旨は60年代の想い出への決別と、より若い世代へのメッセージではないだろうか。
「日本社会は実質よりも、かけ声やスローガン社会であって、次々と耳ざわりのよいスローガンを採用するコピー社会といってもよい」。その象徴は、日本近代史が次々に生み出したスローガン、すなわち「文明開化」に始まって「一億玉砕」そして「構造改革」に至るまでの四文字熟語群である。「それらは常に日本人の思考と行動を拘束して来た」。60年代を振り返りながら自戒として、そして次の世代への贈り言葉として著者は言う、「四文字言葉に気をつけろ」と。

2008年5月28日(水) 思い出の本の探求(No.3)

ロバート・ローソン(白木茂 訳)『はなききマーチン』(講談社・現代児童名作全集)

今日は、私の思い出の本を紹介しよう。 『はなききマーチン』と私の出会いは小学校の本棚であった。ある日、何気なしに手に取り読み始めたが、ミステリータッチの物語にたちまち魅了された。しかし、休み時間に数回楽しみ、これから物語の佳境に入ろうかという時に、その本は忽然と本棚から消えてしまった。誰かが借りたのだろうと思い、そのうちに戻ることを期待していたのだが、結局見つからずじまい。その後、いつかは読み通したいと折に触れて思い出すこととなったが、長い年月が過ぎそれも間遠になっていった。数年前に偶然「スーパー源氏」というウェブサイトにアクセスしたところ、探している本を調べて貰えるサービスがあることを知った。早速問合せたところ、数日後に返信があり、「既に絶版となっていて、古書市場にも見つからないが、唯一その本を所有しているのは、上野の国際子ども図書館です」との貴重な情報を得た。「国際子ども図書館」は国会図書館の支部図書館で、かつての明治レンガ建築を残しながら2000年に改築、新装なった知る人ぞ知る図書館である。子ども図書館とは言え、大人でも利用できる書籍、資料は充実している。また、建物の外観、インテリアともに一見に値する。上層階からは国立博物館や芸大音楽学部のキャンパスなどが遠望でき、周囲には芸術の薫りが漂う。是非、足を運ばれるとよいスポットである。
期待に胸を弾ませながら、久し振りに上野の森を訪れた。何十年の歳月を経ての懐かしの本との再会!そうそう、赤い地に少年の顔の黒いシルエットの表紙!忘れていた思い出もよみがえった。確かにこの本だ!かたい表紙をめくると、少し黄ばんでかすかに黴のにおいをさせる紙。それも古い記憶を呼び起こさせるようでむしろ心地よい。それから2時間弱、熱く読ませて貰った。
主人公デービー・マーチンは「とても、するどい鼻を持った少年」で「窓から、顔を出すだけで、今日の給食のおかずを当ててしまう」。学校の寮の同室のラムゼーはそれを知ると、友達たちが先ほど石鹸で手を洗ったとか、ガムを買ったなどの行動を匂いからマーチンに当てさせて小銭を稼ぐことを企むほどである。前半は1950年代、米国が輝いていた時代の東部の全寮制学校の雰囲気が色濃く描写されている。後半は夏休みを迎え、いなかの実家に帰ったデービー。留守が多い劇作家の父、女優の母の代わりに面倒をみてくれるのはアガサおばさんやお手伝いのローズ、マッキンレー爺やである。楽しいが若干窮屈でもある寄宿舎生活から開放されて自由な実家の休暇を満喫するはずであった。しかし、近所の年上の友達クライドの盗みを持ち前の鼻の力で知ることになり、デービーは事件に巻き込まれていく。クライドになぐられても何とか更生させようと「涙ぐましい努力」をするデービー。今読めば、単純ではあるが忘れていた物語の真髄がここにはあるように思える。読書の原点に立ち戻って楽しむことが出来た。
ところで、これは先ほども述べたように50年代の「古き良き」アメリカが舞台であるが、「てっぽう収集」「ラテン語」「8月は涼しいコッド岬に行く」など当時の東部エスタブリッシュメントの生活がうかがわれる。また、主人公にニューヨークを「ガソリンと石炭の臭いの洪水」と言わしめるが、現在の環境問題を考えれば興味深い。
なお、表紙を見れば「装本・安野光雅」とある。若き日の仕事かとあらためてデザインを見つめ直したのであった。
余談であるが、この本を通じての「スーパー源氏」との出会いは、私にもう一つの節目を用意していた。当店は今「スーパー源氏」の傘下でネット古書店を営んでいる。「はなききマーチン」を小学生の私が手に取らなければ、このホームページも存在しなかったかもしれない。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

honya@kotonoha-shorin.jp
Akiary v.0.61