積ん読雑記

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2008年7月2日(水) 夢追う男の闘いは終わらない(No.8)

星野仙一『ハードプレイ・ハード 勝利への道』(文藝春秋)

野球は不思議なスポーツである。本来はチーム・スポーツでありながら、選手個々人が各自のプレイをアピールできるチャンスが多く、個人競技の側面も併せ持っている。投手はマウンドで快投を続ければ観客の目を釘付けにできるし、野手はバッターボックスに立ちホームランでも打つならば、ファンの拍手喝采を独り占めできるのだ。
子どもの頃から「体も大きく、スポーツは何でもできた」星野仙一が「一番好きな」野球を選んだのは当然の結果であったが、野球こそは彼の個性を発揮できるにふさわしい場所であった。よく、「江戸っ子ですか」と訊ねられるほど血のさわぎやすい(自己の)性格とともに、緻密さに裏づけされた(組織の向上を目指す)戦略性は、この本でも余すことなく述べられている。個と全体の対立と調和、それが星野の命題であると私は考えているのだが、まさに野球こそ、それを追及するに恰好のスポーツであったに違いない。
本書は星野自身の生い立ちにも若干ふれながら、恩師のこと、家族のこと、野球の経験から学んだ諸々の事柄について忌憚なく語られていて、テレビとは別の人となりを知ることが出来る。但し、これは二度目の中日監督時代に書かれたものであり、その後、阪神への転進、日本代表監督就任と状況は大きく変わった。しかし、立場は大きく異なっても、今もその考え方はそれほど変わっていないと思われる。本書の最後の部分に「二十一世紀の球界のために」として三つの提言をしているが、おそらく今書かせても同じ文章となるであろう。個の利害ではなく、プロ野球全体の発展にとって何が最適かを目指すことが過去も現在も一貫した彼の姿勢だからである。
現役時代の通算成績は146勝121敗34セーブ。「同世代の江夏豊(206勝)、平松政次(201勝)を前にしては、二流というほかない成績」であることは隠しようがない。しかし、投手・星野を知る者にとっては、当時の他の投手の中でも際立った存在感を醸し出していたことは今も記憶に新しい。北京オリンピックも近づき、日本の他の有望種目と同様に、野球の結果予測もメディアにおいてかまびすしくなって来たが、私には結果よりもどんなドラマを作ってくれるかの方が余程興味尽きない。この本を読んで、そのドラマを見ればよりエキサイティングになること請け合いである。
身体のわるい子を「おぶって修学旅行に参加した」小学校時代、「弱いものいじめをして威張っていた不良五人を、まとめてぶっとばした」中学生時代以来、星野に一貫して脈打つものは反骨心である。北京では、どのような反骨心を見せてもらえるか?
反骨心を失くした時、星野の役割が終わる時だろう。

2008年7月9日(水) 受験教育では得られないもの(No.9)

木村義志『生き物を飼うということ』(ちくま文庫)

私は本格的な昆虫少年ではなかったが、それでも小・中学生時代にセミやトンボ、バッタなどを夢中で追いかけまわした体験は数知れない。この本を読むと、そんな遠い日が蘇り、懐かしさに浸った。しかし、ここには単なる過去への郷愁を通り越した本当の昆虫少年の姿が書かれている。「生き物を飼うことが好きな人」によって生き物を飼うことの困難や悩みに立ち向かう日常生活が描かれていて微笑ましい。著者は生き物(特に昆虫の飼育)が好きで好きでしょうがないということが行間に溢れかえっている。私たちは既に『ファーブル昆虫記』によって、たかが虫の生態でも人生をかけて追究すれば普遍性に行き着くことを教わっている。この著者もまた、生き物を飼うことで子どもが世の中の仕組みやルール、人間関係などを自然と学び得ることを示している。「命の価値を知るいちばんの方法は死を知ること。死があるからこそ、命が輝いて見えるのだ。生き物を飼うことが好きな人は、生き物の命の輝きに惹きつけられるのであって、それは死という背景を実感しなくては本当に味わうことはできない」。
これは多分、机上の学習では身につかず、実体験ならではの結論であろう。 
「世間ではイモ虫や毛虫は女性の怨敵。両者の相性は最悪と思われているが、・・・女性は男性と同じかそれ以上にイモ虫や毛虫と相性がよいのである。・・・女性の虫嫌いは男性社会の女子教育の成果である」。この箇所で、昔、高校の古文の授業で出てきた「虫愛づる姫君」(『堤中納言物語』)を思い出した。千年も前の文学に虫大好き姫君が出てくるくらいだから、現代においても昆虫少女がもっといてもおかしくはない。近い将来、昆虫少年たちを引き連れた虫愛づる少女を見る機会が来るかもしれない。
 著者はさすがにここまで入れ込んで書くと、変人に見られるかと心配したのか、自身のことを「凡庸であった」と述べている。しかし、私から見れば、かなりクレージーな少年であったと思う。それは勿論、褒めことばである。ゲームなんかよりも遥かに面白い世界があることを、多くの子どもたちが早く気づいて欲しいものだ。

2008年7月16日(水) 百聞は一読にしかず(No.10)

小林多喜二『蟹工船』(新潮文庫)

今回は、今まさに話題の本を取り上げる。この本は今回の一種のブームがない限り、多くの人は手に取ることさえ無かったかもしれない。私もまた、「小林多喜二−プロレタリア文学−築地署での拷問死」、そんな旧来のステレオタイプの見方に支配されて、いつのまにか読まなくても理解したつもりになっていた。今回初めて読む機会を得て、そうした予見・偏見とは違う作品に出会うことができた。
プロレタリア文学の代表作というイメージからだろうか、全編プロパガンダに満ちた政治性の強い作品を想像していたが、読んでみると意外に「普通」の小説という印象であった。
当時の極寒の海における過酷な労働環境などがよく描写されており、「資本家」側の人間である漁業監督・浅川を仲間の船や同じ船の乗組員たちの生死よりも自己の仕事の成果を優先する冷酷非道な人物として扱ってはいるが、(今の時代に読めば)特別に屈折した内容だとは思えない。また、この小説には前述の浅川に対峙する労働者側の特定の人物は出て来ない。これはおそらく、著者が敢えて不特定多数の蟹工船乗組員を設定することにより、労働者全体の問題としての実情を知らしめ、それに立ち向かう「集団」としての存在を訴えたかったのではないかと推測する。
そこには確かに、今の格差社会や個々の顔が見え難い匿名社会に相通じるものがないとは言えない。「資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰り、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる」というくだりなどは80年近くも前の文章とは思えないほど新鮮ではある。
しかし、何故これが今、広く読まれているのか、私にはわからない。
社会構造も経済構造も違う今、考えられない労働条件の厳しさを伴う昭和初期の蟹工船の現場を描くこの小説を、当時を知る手懸りとして貴重な作品であると認めつつも、私には「面白い」とも思えないし、「共感」できる作品という心情もわかりづらい。
数か月前のテレビ番組で「多くの人は、書店の売上ランクを見て、本を購入する」ことを知った。自分が読みたい本ではなく、話題になる本を買いたいということなのか?
『蟹工船』の売れ行きがそんな一過性でなければいいのだが。
今の若者たちがこの本に本当の意味で共感し、今の彼らの閉塞感を打開したいならば、
誰かが平成版『蟹工船』を書かねばならないし、書く責任がある。
小林多喜二を超える書き手の登場を期待したい。


2008年7月23日(水) 数え方で知る日本語の豊かさ(No.11)

小松睦子&ことば探偵団『知ってるようで知らない ものの数えかた』(幻冬舎)

この本の帯を見ると、“蝶々は一頭と数えるなんて知らなかった!贈り物は一枝 数えかたはひとつじゃない。ものの意味や形で、数え方が決まる。姿が変われば単位も変わる。粋な「数え方」、使ってみませんか?”とある。早速、身近にある国語辞典を手に取り“蝶”の項目を見れば、「一羽」「一匹」とともに確かに「一頭」もあるではないか。本書によれば、昆虫学の専門家の間では、「頭」と数えることが一種のステイタスであるという。
そんな数え方の事例が、120頁にも及ぶ本の中に満載されている。我らが先達は何と豊かな感性をもっていたか、そしてものの数え方ひとつにも多彩な表現力を駆使してきたか、その素晴らしさを再認識させられた。ともすれば私たちは、すべてのものを「一個、二個・・・」で済ませてしまい勝ちである。生産性だけを優先するならば、その方が手っ取り早いかもしれない。しかし、文化が知性と感性の集大成でもあるならば、何気ないものの数え方にも木目細やかさがあることは喜ばしい。
著書のエッセイに次のようなくだりもある。 ・・・「一杯やりませんか?」というお誘いも好きですが、「久しぶりに、一献いかがでしょう」というお誘いのほうが、風流で粋なお誘いに思えたり・・・。なるほど、酒がうまそうに思えるだけでなく、人格までワンランクアップに見えること疑いなしである。
この本を拾い読みして気に入った数え方を、早速明日にでも使ってみませんか? あなたへの評価が高まること請け合いである。
本書の末尾に「付録・数のクイズ」が45問載っているが、寝苦しい夏の夜に解いてもいいかもしれないが、却って寝られなくなるかも。
明日は土用の丑の日。数え方に思いを馳せながら、鰻をご賞味あれ!

2008年7月30日(水) 『蟹工船』は苦悩の序章に過ぎない(No.12)

高橋和巳『我が心は石にあらず』(新潮社)

『蟹工船』が(意外な?)売れ行きを伸ばしていることに驚きを禁じ得ない。それは前々回のこの雑記でも述べた。今回はそれに優るとも劣らない作品をお奨めしたい。 

 先日、ある評論家が(当日の本題とは違うのだが)たまたま小林多喜二について触れるくだりがあり、次のように述べていた。「多喜二はエリート銀行員であり、『蟹工船』は自らの体験でなく、聞き書きに過ぎない。彼と同様、かつてマルクス主義に影響を受けた日本の文学者たちは大半が富裕な階級の出身者であり、(椎名麟三と黒田喜夫を除けば)労働現場の実体験に根ざした作品はない」。これには、首をかしげざるを得なかった。確かに事実ではあろう。しかし、たとえ体験に基づいていないからと言って、それが作品の価値を貶める要件になるとは思えない。殺人を犯さなくとも『罪と罰』を書けるし、自らの頭上に爆弾を落とされなくとも『ゲルニカ』を描ける。私たちの想像力と思考力は、時には実行者や体験者を凌ぐことが可能であり、それこそが文化の真髄である。
 さて、多喜二の体験の有無は別として、『蟹工船』が昭和初期の労働現場を知らしめる教材であるばかりでなく、現在の社会構造の矛盾にも通じるものとして何故多くの人に受け入れられるのか? 「蟹工船ブーム」に私は少なからず疑義を持つが、それが時代を超えた労働者の意識付け、啓蒙のための作品と考えれば、極めて不安定な立場にある今の若きフリーターたちには、心の拠りどころと映っても不思議ではない。しかし、多喜二の時代はまだ牧歌的時代でもあったとも言える。治安維持法の下、戦後とは比較にならない厳しい締め付けはあったものの、労働運動の勃興期として問題の構造は見えやすかった。
 その約35年後の作品、『我が心は石にあらず』(昭和42年初版)は戦争を経て、日本の労働運動が複雑に変化を遂げたことを見事に描いている。数十年の時差は当事者たちの悩みをより複雑に、より内へと向かわせている。
主人公は出身地である地方都市の企業に勤める優秀な技術者であるとともに労組の委員長でもある。奨学生として地元経済界の期待を背負いながらも、労働者の指導的立場とのはざまで揺れ動く苦悩は、多喜二の時代のそれよりも病巣は深い。
また、主人公が会社、組合、家族そして組合運動を通じて親しい関係になる女性ら周囲との人間関係の中で神経をすり減らす姿は、ストレスの多い現代人の悩みにも通じる。
昭和初期の『蟹工船』の次なる作品として、昭和中期に至り労働運動に挫折する『我が心は石にあらず』の主人公の心の軌跡を是非読んで欲しい。
「これから、どうするかな」仲間の裏切りに敗れた主人公が家族との団欒の中に帰って行くように、今の私たち誰もが帰るべき場所はあるだろうか?

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