積ん読雑記

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2008年8月6日(水) 日本語、もうひとつの特異性(No.13)

屋名池誠『横書き登場』−日本語表記の近代ー(岩波新書)

「日本語はむずかしい」とか「日本語は特殊な言語だ」とはよく耳にすることだ。私たちはそれを言ったり、聞いたりする時、それがあたかも日本語の存在証明であるかのように若干誇らしげになったり、あるいは世界から“孤立”した言語であることに残念さを感じたりもする。しかし、よく考えれば、日本語は欧米言語体系の中で「日本語の音韻や文法構造が特殊」なのであって、「人類の言語として決して特殊なものでも、学びにくいものでもないということが、最近の言語類型の研究でわかってきている」そうである。
一方、日本語を文字・表記の側面から見ると、その複雑さは確かにうなずけるものがある。例えば、漢字・ひらがな・カタカナの三つの文字体系が並存するのは極めてめずらしく、しかも漢字には音読みと訓読みがある。さらに音読みには呉音・漢音・唐音など多様な読み方がある。《例;呉音=頭巾(ずきん)、漢音=頭髪(とうはつ)、唐音=饅頭(まんじゅう)》
ここまで複雑な文字・表記体系を持つ言語は日本語を除けば見当たらないかもしれない。
本書は文字を配列する方向、すなわち「書字方向」に着目して日本語の“特殊性”を掘り下げている。私たちは日頃無造作に横書きや縦書きを使い分けているが、「日本語は書字方向の自由度が高く、バラエティに富む点で、実は世界的に稀有な存在」であることを著者は教えている。しかし、日本語に本格的に横書きが登場したのは「つい最近、わずかこの百数十年にすぎない」という。江戸時代以前の欄間に掛けられた横長の扁額に見られる横書きは「一行一字の縦書き」であるという指摘には目からウロコである。
古代から近代まで日本語の書字方向がどのような変遷をたどって来たか、豊富な実例を示しながら丁寧に解説してくれている。横書き・縦書きの探究が日本語の本質を探る重要な道筋のひとつであることをこの本は私たちに示している。
「書字方向は社会的制度である」、「近代化とは、合理的な根拠のない「きまりごと」から自由になってゆくことであるとすれば、日本語の書字方向は横書きを得て、近代化したのである」という。新聞の縦書きもビジネス文書の横書きも長い日本語史の所産であることにあらためて感慨をもたされる。

2008年8月13日(水) ミステリーの醍醐味(No.14)

伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』(新潮社)

2008年上半期(第139回)直木賞は先日、井上荒野『切羽へ』に決まったが、あるいは今日紹介の本も受賞のチャンスはあったかもしれない。『ゴールデンスランバー』が直木賞の有力候補という声も巷では聞こえたが、伊坂幸太郎はこの本の候補作への推薦を辞退した。この作品の前にも、これまでに実に5回、伊坂は直木賞最終選考に残りながらも受賞の栄誉に浴することはなかった。しかし、上には上がいるもの。東野圭吾は6回目で悲願の受賞となった。今回の辞退の真意は不明だが、もし候補に上っていたら? 勿論、取れたとは限らないが、興味は尽きない。
仙台出身の現役首相が地元でのパレード中、ラジコンに仕掛けられた爆弾により暗殺されるという事件の犯人に仕立て上げられた主人公が、見えない敵から逃げのびることができるか。錯綜する糸を緻密に結びつける見事な構成。練り上げられた筋立て。暑気払いの読書にふさわしい本である。
エンターテインメントは物語の面白さにのみ関心が向けられるのが常だが、著者の日頃の考えがさりげなく表現されるのも見落とせないポイントである。
例えば、次のような箇所。「何だか、むなしくなっちゃったんですよ」「俺ね、・・・結構、まじめに(役所の)仕事をやっていたんすよ。集中して、効率的に。で、残業しないで、定時に帰って」「でも、年上の先輩とかはだらだらやって、残業ばっかりして、・・・早く帰る俺は、仕事が足りないと思われて、次から次に新しい仕事を割り振られるんすよ。ゆっくりやってる奴は仕事が増えないで、っていうか、逆に減ったりしてますからね。不公平っすよね。残業代だって、税金から出てるのに」。
仕事の客観的評価の難しさ、(公務員の)職業倫理の問題などを小説の中の会話にそれとなく織り交ぜるところは効果的である。
 「ゴールデンスランバー」はポール・マッカートニーの曲名でもあるが、その言葉の意味とミステリーの種明かしは、実際に本を手にとってお確かめいただきたい。

2008年8月21日(木) 街に溶け込む美術館(No.15)

残暑厳しい毎日です。暑さの所為にするつもりはありませんが、この季節は読書もなかなか捗らないものです。今回は本の紹介を離れて、美術館散策としました。

    「朝倉彫塑館」東京都台東区谷中7−18−10 

 久し振りに日暮里駅のホームに降り立つと、その変わりように驚いた。日暮里・舎人ライナーの開通により人の流れが変ったせいか、構内の様子もかつてとは随分違う。強い日差しの下に出てみると、駅前には高層マンションがこの街とは不釣合いに辺りを睥睨している。下町には、やはり低い家並みの方が似合うと思うのは郷愁にすぎないのか。
しかし、西口を出て御殿坂をのぼりはじめると、そこは昔のままの世界。ホッと息をつく。お寺、食堂、煎餅屋などを眺めながらそぞろ歩くと小さな十字路に出る。まっすぐ進めば、“夕焼だんだん”と呼ばれる石段。そこを降りれば“谷中銀座”商店街だ。右に折れると諏訪神社の境内へ続く道。今では都内で唯一の、富士山を見ることができる“富士見坂”もその途中にある。今日は四つ角を左折する。一車線のせまい道に足を踏み入れると、左側には昭和の面影を残す飲み屋街“初音小路”。ここの入り口に往時、伝説の古書店「鶉屋書店」があった。下町らしい低い軒が両側にせまる道をさらに進むと忽然と黒い洋館が現れた。
 ここが「朝倉彫塑館」である。この東京・台東区谷中の地に彫刻家(彫塑家)・朝倉文夫が居を構えたのは明治40年(1907年)、24歳の時であった。この年、東京美術学校(現、東京芸大)を卒業している。まだ無名の青年が当時はまだ小さいながらも、一軒のアトリエを設けて彫刻の道に果敢に挑んだことに、その志がいかに大きかったかがうかがわれよう。木立に守られるようにたたずむ門をくぐると蝉の声が一段と身近に迫ってきたが、一旦館内に入ればそれもいつのまにか消え、気がつくと静寂の世界に包まれていた。ここの特徴は文夫の住居とアトリエをそのまま美術館にしたところにある。生活空間と芸術空間のマッチング。そして谷中の街とは一見異次元にありながらも、どこか調和の取れた不思議な建物。表から見れば全体は西洋館であるが、裏に廻れば地下水をくみ上げる池を囲むように数寄屋造りの部屋が並ぶ。和魂洋才の明治の芸術家の人となりが偲ばれよう。
 名作の数々を見学して最後に3階から屋上への急な階段を上ると庭園に迎えられた。街の喧騒もここまでは届かず、真夏の暑さを忘れさせるように心地よい風が微かな音をたてて頬を切って行く。はるか遠くには上野、本郷界隈のビル群が眺望できる。目を落とせば谷中霊園と天王寺の甍。幸田露伴『五重塔』ゆかりの寺である。周囲の小さな路地もここからはさらに小ぶりに見える。どこからともなく「のっそり十兵衛」がひょっこり姿を見せるのではないかと、目を凝らす私であった。

2008年8月28日(木) 書名の妙(No.16)

朝倉かすみ『田村はまだか』(光文社)

 旅の飛行機や新幹線の中で時間しのぎに小説でも読もうかという時、一番安全、確実な方法は好きな作家、好きなジャンルから選ぶことだ。それならば多分、外れはないだろう。しかし、久々に日常生活から開放された旅先でまた、いつもと相変わらぬ作品を手にするのも無芸なような気がする。そんな時、思い切って見知らぬ作家を選ぶのもいいかもしれない。勿論、知らない作家であるからにはハズレもある。評価の定まった作家たちであれば、無難であろう。たとえ読者の趣味に合わなかったとしても、一度読んでおけば何かの時に役立つこともあるにちがいない。しかし、初めての作家の場合には、そうはいかず、ギャンブルみたいなもの。良いか悪いか出たとこ勝負。まあ、それも一つの楽しみと言えなくもないのであるが。
今日の本は、まさにその類の1冊であるが、ハズレではなかった。本屋で初めて見た時、書名に先ず引かれた。『田村はまだか』。著者あるいは出版社が営業戦略的につけた名とは思わないが、少なくとも私には「どんな本かな?」と思わせるだけの効果抜群の書名であった。
著者は朝倉かすみ。知らない。略歴を見れば、北海道生まれとある。なぜか最近、佐々木譲、谷村志穂など北海道出身の作家の本に縁がある。表紙を見ると、中年の男が椅子に座って左手で耳を触っている絵。これが田村? それとも別の人物? 早速、買って読んでみた。 
 クラス会で昔の仲間たちに再会すると、忘れていた想い出が次々とよみがえる。そんな経験をお持ちの方々は多いだろう。この小説は小学校のクラス会の三次会、間もなく日付けが変わろうかという札幌の深夜のスナックを舞台にストーリーが展開される。カウンター席を占めた男三人、女ふたりの五人連れ。男のひとりが「田村はまだか」と声を張り上げる。「遅いぞ、田村」「なにやってんのよ、田村」「田村、遅すぎない?」どうやら田村という昔のクラスメートを待っているらしい。クラス会に間に合わなかった田村。三次会にも、彼はなかなかやって来ない。しびれを切らしながらも待ち続ける五人。田村久志を思い出しながら、それぞれの想い出や今に至る出来事の数々を振り返り、感慨にひたる五人の面々。なぜ田村が気になるのか?田村は果たして来るのか、来ないのか? 話を聞きながら、いつの間にか自分でも田村を待っている、スナックのマスターと読者である私。
そう云えば偶然にも、私の高校のクラスにも田村がいたことを思い出した。彼は元気にやっているだろうか。  

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Akiary v.0.61