積ん読雑記

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2008年9月5日(金) 「コピペ」その便利さゆえの危険性(No.17)

9月1日放映『NHKクローズアップ現代』
”コピペ〜「ネットの知」とどう向き合うか〜”が提起する問題点

この雑記を綴るにあたって、私なりの一つのルールを設けた。それは社会的な問題に対する個人的な意見は極力差し控えようというものである。このコーナーの本来の目的は「本の紹介」であり、新聞の投書のような役割を持つものではない。従って、取り上げる本に纏わる批評の範囲内において意見を述べることはあっても、毎日の社会的事象に対して個人的な考えをPRするつもりはない。
しかし、今週の月曜日にたまたま見たNHK『クローズアップ現代』で「コピペ」の実態を知り、そこに憂慮すべき問題が潜んでいることを認識させられた。今回は書評ならぬテレビ批評として「コピペ」問題を取り上げたい。
『クローズアップ現代』の持ち味は幅広い話題性と時宜を得たテーマの取り上げ方にある。月曜から木曜まで毎日品を変えて、あらゆる分野をそれぞれに深く掘り下げる内容は常に充実しており、国谷裕子氏とスタッフの能力の高さを示すものであろう。
9月初日の番組ではコピペ、すなわちパソコン上で他人の文章やデータをコピーし、貼り付け(ペースト)することが小学生から社会人まであらゆる世代に浸透していることを報じていた。確かにコピペはたいへん便利なものであり、これによって活字表現の生産性は計り知れない飛躍を遂げたと言えよう。
経済学者・野口悠紀雄氏もコピペを積極的に活用している一人である。特に統計データの処理を正確にやってくれる利点を生かして、野口氏は多くの成果を得ているという。但し、情報をそのまま使うのではなく、使い方にも創意工夫が必要であり、どういう用途で利用するかが問われているのだと指摘する。
一方、ある大学では学生の提出レポートの半数近くまでもが、コピペを行っているという。しかも、他人の文章を(引用ではなく)丸写しに近い形で出して来ることが多いようである。数分の内に苦もなく体裁の整ったレポートが出来上がる便利さは一度味を占めたら忘れられないにちがいない。しかし、文体や言葉の使い方から自作のレポートではないことが簡単に見破られるそうであるが。
このようにコピペと一口に言っても、活用の仕方は様々であり、一概にその善悪を論じることは難しい。
ところが、番組の中で「恩田ひさとし」なる人物が「自由に使える読書感想文」というホームページを作り、子どもたちに読書感想文のひな形を提供していると知り、愕然とした。
「夏休みを(読書感想文などから開放されて)有意義に過ごしてもらいたい」が為に作ったという。68万件ものアクセスがあったそうだ。「あなたは私の救世主です」などの御礼メールを受け取り、恩田氏は「大変うれしい」と誇らしげに語っていた。しかし、それは自己満足に過ぎないのではないか。恩田氏は子どもの創造性を奪っている点で大きな過ちを犯していると思う。小学生の時から、他人の成果を堂々と借用する癖をつけた子どもたちが果たしてどんな大人に成長するのか、暗澹たる思いを防ぎきれない。読書感想文の宿題が本当に「有意義な夏休み」の妨げになっているとするならば、宿題というシステムや中身を見直すべきである。弊害を容認して、小ざかしい抜け道だけを教えることは罪深い行為に他ならない。
番組の最後で、茂木健一郎氏は次のように締めくくった。「脳は情報を編集して新しいことを生み出す。その人の脳を経由して熟成された言葉こそ、その人自身が培った表現でもある。自分らしい情報、自分にしか知りえない情報は各自の生の体験から生れるものである」。
情報という他者の資産、それは絶対に必要なものである。その上に自分自身の思考をめぐらすことで、そこにオリジナリティーが育ち、何かに向けた一歩を私たちは踏み出すことが出来るのだろう。

2008年9月11日(木) 1970年、衝撃の年、そして青春の書(No.18)

吉本隆明『共同幻想論』(河出書房新社)

私は1970年に20歳を迎えた。三島由紀夫が自決した年である。三島は20歳の節目に終戦を迎え、日本人の価値観の瞬時の逆転を目の当たりにして、その後の文学的方向性が決定づけられたと言われる。私の場合も20歳で三島の壮絶な最期を見せつけられたことは、私自身の低いレベルなりに忘れられない衝撃であった。
一方、当時、思想的・政治的立場は三島と相反する吉本隆明もまた私にとっては大きな存在であった。
その年の夏、信州の民宿に逗留した際に持参していた『共同幻想論』にそれまでの読書経験にない驚きを覚えた。 「個人」、「恋愛・家族」、「社会の中の人間」、それぞれの観念を「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」と名づけ、鋭い論考を展開しているが、「幻想」という名の言葉に、この本自体のどこか霧に包まれた不可思議性を象徴しているように感じたものだった。
神話『古事記』と民話『遠野物語』に準拠して、日本人の個人から対人関係を経由して社会的観念に至るまでを分析する本書は、正直言って私には難解であった。しかしながら、読み進むうちに主題の普遍性と文体の論理性に、どこか引きつけられるものを強く感じた。容易に理解できないながらも尋常ならざるこの本の迫力は20歳の私の心に何かを焼き付けた。
吉本独自の文芸評論の帰結が、言語学(『言語にとって美とはなにか』)や現象学(『心的現象論』)の領域に到達したと同様、文学を出発点として個人と社会との関係性を論じる本書もまた吉本的必然性の所産と言えるだろう。
余談だが、三島の最期の日は吉本の46歳の誕生日であった。三島が吉本の誕生日を敢えて決行日に選んだのだと、当時の私は信じて疑わなかった。それだけ私には、この両巨人が常に意識の対象として絶対的な存在であった。二人の直接の対峙、論戦を聞いてみたかったが、永遠に叶わぬ夢である。

2008年9月20日(土) 今の暮らしは合理的なのか(No.19)

堀井憲一郎『落語の国からのぞいてみれば』(講談社現代新書)

私たちは自分が生活している時代が歴史の進歩の頂点にあり、今が過去のどんな時代よりも便利で住みやすいのだと思っているのではないだろうか。
この本を読んで、そんなことを考えさせられてしまった。落語の世界から江戸の暮らしぶりの様々な側面を読者の前に提供してくれる。江戸といっても地域的な江戸ではなく、江戸時代の江戸と上方、関東と関西の比較も含めながらのなかなか面白い生活文化論でもある。「街角の煙草屋のちょっと先の江戸までの旅」感覚で軽妙に江戸の庶民の暮らしが紹介されている。200年前の江戸の人たちの日常が豊かな知恵に裏づけされていたことに感動さえ覚えるのである。年齢感覚、時間の捉え方、死生観、名前のあり方、金銭感覚等々、16章それぞれのテーマ毎に物語にもなっている。
例えば第1章は年齢の話。私たちは満年齢に慣れているため、数え年齢はどうしても親しみ難い。しかし、数え年も実は根拠のある考え方であることを教えてくれている。
私が面白かったのは、「里」という距離単位。1里はだいたい1時間で歩く距離だそうだ。当時で言えば半刻(はんとき)。現代人が1分1秒(オリンピック競技ならさらに細かい)単位でしばられることを思えば、ゆったりした時間の流れがうらやましい。それでも当時は宿場から宿場へ東海道五十三次を走るように歩いていたそうである。今のように煌煌と夜が輝いてはおらず行動時刻が限られていた時代には、昼間こそ貴重な時間帯であったわけである。
著者はお江戸日本橋から京の三条大橋まで東海道を踏破したそうである。その体験がそこかしこに息づいていると思わせるだけの独特の視点を持った本である。
ところで重箱の隅をつつくような細かい話で恐縮だが、一箇所だけどうしても気になった点がある。落語の引用箇所、「下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下へやってまいりまして・・・」の部分で「下谷」に「しもや」とルビがふってある。これは「したや」の筈なのだが?

2008年9月26日(金) 今頃読む2年前のベストセラー(No.20)

太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)

本書の初版は2006年8月とある。それはちょうど小泉政権から安倍政権への移行期でもあった。その時期にこの本が発行されたことは意味があったと思う。その頃を振り返れば、政界やメディアでは憲法改正論議がかまびすしかった。安倍政権が標榜していた「戦後レジームからの脱却」の柱として「憲法改正」が具体的日程にのぼる勢いであった。そうした背景の下に、この問題について賛否両論の立場から多くの論客たちが意見を戦わせていたことが思い起こされる。この本はそのような状況において生れたものであった。
ところが今や憲法の話はどこ吹く風、「年金」・「食の安全」・「金融危機」等々私たちの生活に結びつく諸問題の山積で2年前の熱き議論ははるか昔の出来事のようだ。
しかし、「憲法」は依然、政治の底流にあるテーマであり、いつか再燃されることは避けられない。そう思いつつ一昨年の書棚から引っ張り出して来た。
さて、11章103条に及ぶ「日本国憲法」からすれば、当然いろいろな争点があるが、憲法改正において深く議論されるべきは唯一、「九条」の是非にあるといっても過言ではないだろう。本書もその名のとおり、「九条」に焦点を当てている。
但し、この一見突飛且つ過激ともいえる書名は、この本の後半を体現しているに過ぎない。本書は月刊誌『すばる』に2か月に亘って連載されたものを加筆したものだが、前半が「宮沢賢治と日本国憲法」、後半が「憲法九条を世界遺産に」であった。『すばる』の前半、本書では第一章「宮沢賢治と日本国憲法」こそが実は重要ではないかと私には思われる。
童話作家であった平和思想家・宮沢賢治と(八紘一宇の提唱者である)田中智学の政治思想に傾倒していった宮沢賢治、同一人物の中のこの相矛盾は、近・現代日本の抱える葛藤に他ならない。憲法問題は日本そして日本人の極めてベーシックなテーマであることを本書は教えてくれる。憲法は国の骨格。「100年安心」年金のようにあやふやであってはならない。
「護憲」の立場から書かれたものではあるが、その賛否を超えて示唆に富んだ本でもある。私が面白いと思った2か所を紹介しよう。

◇太田光;妻はズバリ言う。「あなたは、何になるつもりなの。青臭いあなたの言葉こそ一番危険なのよ!」と。・・・妻の言い分は正しい。にもかかわらず、なぜ私の体はこちら(九条を守る)に進むのか。それは何の引力か。・・・

◇中沢新一;京都に日蓮宗の寺と浄土宗の寺が道をはさんで向かい合わせあった。この寺同士がものすごく仲が悪くて、お互いに悪口を言い合っている。悪口を言うだけでは気がすまなくなって、日蓮宗のお坊さんたちは、法然と名づけた犬を飼っていじめた。「法然のバカ」とか言って、みんなでこづき回す。それを見ていた浄土宗の寺のお坊さんが、何くそと日蓮と名づけた犬を飼っていじめ始めた。
ところがある日、日蓮という犬と法然という犬が道でばったり出くわして、大ゲンカを始めた。そうしたら、日蓮宗のお坊さんたちが、「法然頑張れ」、浄土宗のほうは、「日蓮頑張れ」と応援しちゃった(笑)。そのうち、はっと気がついて、お互い反目をやめたというお話。



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Akiary v.0.61