積ん読雑記

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2008年10月5日(日) 異色のスポーツ小説(No.21)

村上龍『走れ!タカハシ』(講談社文庫)

高橋慶彦、背番号2、広島カープ黄金時代の俊足のショートストップ。カープファンならずともプロ野球好きであれば誰でも知っている選手であると思うが、今の20歳代以下の人たちには、なじみが薄いかもしれない。33連続試合安打の日本記録保持者であると言えば分かって貰えるだろうか。
数あるプロ野球選手の中から小説の題材に高橋慶彦を選んだことは、なんとなく村上龍らしい。どこか不良っぽくて、それでいて一流選手としての実績を残し、見る側にある種の存在感を残す選手であった。そういえば、(経済問題に興味を持ち、すっかり貫禄がついてしまった今の村上からは想像できないが)、彼にもかつては慶彦的なスタイルがあったようにも思えてくる。
文庫のあとがきにおいて、村上は「普通の人々を登場人物に選び、軽快なスポーツ小説を書いたつもりだ」と述べている。しかし、これは一般的なスポーツ小説とは全く違うタイプの作品である。11作の短編連作集に出て来る主人公たちは、高校生であったり、失業中の運転手であったり、30代の小説家であったりと様々であるが、彼ら自身がスポーツを直接行うことはない。しかし、主人公たちとその周囲の女性たちとの物語の中で、どの話にも何故かタカハシが筋立ての中心的役割をもって登場して来る、不思議なスポーツ?短編集である。結構重い内容もあるのだが、文体のなせる技か、ライト感覚で楽しめる作品が揃っている。
さらに、この文庫の解説を吉本ばななが書いている点も見逃せない。解説では11作の中から具体的に4作を挙げて「個人的には大好きだった」と言っている。皆さまがお読みになって彼女に同意するかしないかを見るのも面白いのではないだろうか。
ところで、どうしてこの本を選んだのか? 私事であるが、実は過日、広島市民球場に野球観戦に行って来た。私は特に広島ファンという訳ではないのだが、今年限りで閉鎖される同球場を是非一度見ておかねばと思い立ち、訪れた。ノスタルジーを感じさせる昭和の雰囲気を残すスタジアムを満喫してきた。プロ野球球団の本拠地も次々に新球場に変わり、歴史を積み重ねた残る球場は甲子園、神宮そしてKスタ宮城(クリネックススタジアム宮城)ということになる。
被爆地広島の復興の象徴でもあった市民球場のなごりを惜しみながら、この本に自然に手がのびた次第である。

2008年10月12日(日) 角界、裏方のこぼれ話(No.22)

呼出し永男(のりお)『相撲甚句・有情』(マガジンハウス)

ご存知のとおり、大相撲の世界はここのところ、難問山積である。いや、危機的状況にあると言っても言い過ぎではないだろう。「国技」という特権に名を借りて改めるべきことを見過ごしてきたツケが廻って来たと言えばそれまでだが、ここも一大社会。相撲協会の運営が立ち行かなくなれば、親方や力士たちの自業自得では済まされないほど、その影響を受ける人たちの数は計り知れない。
この本は、大相撲の社会の中で、そうした影響を受ける側にいる人間、すなわち裏方として角界を支える立場にいる呼出しが見聞きしたエピソードが満載である。
但し、これが書かれたのは14年も前、若・貴の時代である。大相撲が夢も希望もあった時代である。もし今、同じ本を著者が書いたらどんな内容になるのか?そんなことを想像しながら読まざるを得なかった。しかし、今だからこそ、大相撲が輝かしかったあの時代の本に接することに意義あるのだとも言えるだろう。 
呼出し永男(本名・福田永昌)は昭和5年、東京・向島に生れた。国技館のある両国と目と鼻の先である。昭和21年、「米のメシに誘われて」呼出しとして大相撲の世界に入った。同じ年に初代若乃花が入門している。大相撲は力士たちと、それをさばく行司、この両者が何と言っても華である。しかし、それを支えている裏方たちも見過ごしてはならない。力士の髷を結う「床山」は表にこそ出ないが、無くてはならない存在である。そして「呼出し」。これは専門職である床山以上に裏方と呼ぶにふさわしい役回りである。文字通り呼出しを行う他に、土俵作り、幕や房の取り付け、太鼓打ち、拍子木ならし、水桶・塩の係、懸賞金の旗を持って土俵上を回る等々、さぞ忙しかろう仕事の数々である。その想い出の話の数々もまた、たいへん面白い。内側から見た大相撲の逸話として貴重な記録でもある。
呼出しの役割を忠実に行う傍ら、永男はもうひとつの才を発揮していく。24歳から始めた相撲甚句作りである。14年前発行の本書において既に700を超える作品があると言っているから今ではどれだけの数にのぼるであろうか。相撲甚句の第一人者の地位を確固たるものにしている。巡業先ご当地の甚句、出世力士の甚句など、本の中でも多くの力作を紹介している。残念ながら活字ゆえ、音として聴けないため、甚句そのものになじみのない読書には理解しづらい部分もあるが、その価値を多くの人に再認識させるに十分である。
競技としての大相撲に優るとも劣らない相撲文化の一端を知ることができる。 
著者が「(相撲は)礼に始まって礼に終わる。勝ってガッツポーズなんてとんでもない」と言う時、この人にしかない重みを感じる。

2008年10月19日(日) 苦悩と向き合う勇気/漱石とマックス・ウェーバーからのヒント(No.23)

姜尚中『悩む力』集英社新書

政治学者として既に確固たる地位を築いている姜尚中が『悩む力』なる著書を出し、しかもそれがよく売れているという。私はある種の訝しさを感じながら、この本を読み始めた。これまでにも何人もの著名人がその名や地位を背景に、この類の本を売らんとして来た例があるからである。姜尚中もいよいよ世の中に迎合するような仕事に手を出し始めたのかと疑ってしまった。しかし、それは私の誤解であったようだ。政治の究極とは人々の幸福を追求する手段であるとするならば、政治学においても、人々の悩みからの開放を語ることは自然の道理かもしれない。著者のこれまでの政治学研究の延長線上にこの本があると考えれば、それを単なる悩み解決本とするのは短絡的捉え方というものだろう。
100年前の東西の知性の代表者たる漱石とマックス・ウェーバーが直面した苦悩は、現代の私たちにも共通の試練であるとする視点から本書は出発する。各章ごとに自我、金銭、知性(情報)、青春、宗教と自由、労働、愛、生と死それぞれのテーマについて、両賢人がいかに悩み、どのように立ち向かって来たか。1世紀の時空を超えて私たちに貴重なヒントを与えている。もし当時の著作をネタに紹介にとどまるならば、並の人生指南書になってしまう。この本の真骨頂は漱石とウェーバーの受け売りではなく、彼らの著作を深く読み込み、その上で著者自身の考えを自らの言葉で纏め上げている点だ。
例えば、著者は「まじめ」たれと言う。今、「まじめ」と言えば、多くは他人を揶揄する意味さえ持っている。しかし、「「まじめ」というのは、「中途半端」の対極にある言葉ではないでしょうか」というくだりを読むと、私には著者がなんと真面目な人間かと感動さえ覚えてしまう。「在日」という緊張感の中に生きて来た著者の眼からは、のほほんと暮らす今の大半の日本人はどのように見えるだろうか? この本は日本人への叱咤激励、もっと言えば挑戦状と言えなくもない。それは奇をてらった見方であろうか?

2008年10月27日(月) 「文章とは何か」をあらためて考える機会を与えた小説(No.24)

楊逸『時が滲む朝』(文藝春秋2008年9月号)

 「文藝春秋」と「オール讀物」それぞれの芥川賞、直木賞の発表号はいつも待ち遠しい。受賞作を楽しみにもしているが、それ以上に選考委員の選評が面白いのである。控えめに評価をくだす人が大半であるが、一部には歯に衣を着せぬ講評があり、その賛否は別としても、過激な意見であればあるほど利害に直接関係ない一般読者には興味が尽きない。それは無論、無責任な第三者だからこそ言えることではあるが、文壇の活性化のためには、そのくらいのサービス精神があってもいいと思う。
芥川賞の選考委員ならば石原慎太郎のコメントが特に刺激的である。日頃の言動の大半は賛同に値しないが、この選評に限るならば間違いなく面白い。勿論、常に無条件に頷ける選評というわけにはいかないが、少なくとも具体的な問題提起はしてくれる。
さて、第139回(平成20年度上半期)芥川賞は楊逸が2回目の候補作で晴の受賞を射止めた。前作『ワンちゃん』も最終選考まで残ったが残念ながら「日本語」の文章力で“否”となったようである。今回の『時が滲む朝』は、私には2〜3箇所表現上で微妙な引っかかりを感じた部分はあったものの、全体として日本語そのものが稚拙であるとは思わなかった。例えば前回の芥川賞受賞作『乳と卵』(川上未映子)の冗長な文体の方が私にはよほど苦痛であった。川上未映子を「現代の樋口一葉の誕生」などと持ち上げたキャッチコピーがあったが、私には買いかぶりも甚だしいと思う。時代が違いすぎて比べるのもナンセンスかもしれないが、織田作之助の必然性ある大阪弁の小説に対して、単に日常会話を文章化したにすぎない川上の文体に、私は普遍性があるとは認めない。
 楊逸の文章は、これを著者の名前を知らずに読んだとしたら、大部分の読者に中国人が書いたとは想像させないだけのレベルには十分に達している。文学賞の選考において外国人が書いた日本語だからという理由で割り引いて評価する必要は全くない。楊に外国人というハンデを与えないとしても今回の受賞作は作家の文章として一定の条件は満たしていると思う。むしろ吟味されるべきは作品の内容であろう。
 受賞作は中国西北部の貧しい地域の名門高校で最優秀の成績を競った親友、梁浩遠と謝志強が進学した大学で民主化運動に目覚め、熱い体験しながらも挫折していく。日本人残留孤児の娘と結婚して日本で生活することになる浩遠は、苦い思い出を背負いながらも今も若き日の理想を夢見る。義兄や周囲の中国人たちの現実主義に違和感を持ちながらも、妻子との安定した生活を続ける浩遠に周囲は言う。「誰だって生活があるんだ、民主だけでじゃ生きていけないってことよ。お前って本当に真面目で世間知らずなんだから」。そんな中で浩遠は8年ぶりに志強と、11年ぶりにかつての民主化運動の指導者であった甘先生、そして当時、浩遠も志強もともにあこがれた女子大生白英露との再会。結末にはちょっとしたオチも用意された10数年の時間の重み。最後の浩遠と家族(妻と日本で生まれ育った娘・桜、息子・民生)との会話は、表面的にボーダーレス化しているかに見える今、依然として私たちの前に立ちはだかる国家や民族の存在を思い知らされる。
「中国ってどこ?」「パパのふるさとよ」「パパのふるさと?ふるさとって何?」・・「ふるさとはね、自分の生まれる、そして死ぬところです。お父さんやお母さんや兄弟たちのいる暖かい家ですよ」「じゃ、たっくんのふるさとは日本だね」
 文藝春秋のインタビューで著者自身も述べているように、この作品のモチーフは天安門事件にある。しかし、横浜に住む伯父を頼って来日後、二十年余りの著者の日本での生活を踏まえた現代のグローバル化に関する普遍的な主題と日本語で書かれなければならなかった必然性とがこの作品の根底にあるように思われる。「天安門事件で挫折を強いられる学生たちの群像を描いているが、彼らの人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さという根源的な主題についての書きこみが乏しく、単なる風俗小説の域を出ていない」(石原慎太郎)、「小説は広義の“情報”である。・・・わたしにとっては価値ある情報を見出せなかった」(村上龍)。
両氏の講評には「なるほど、そういうことか」とは思うが、私にはこの作品は、一国を題材とした小説というよりはむしろ、インターナショナルなテーマを掲げた小説として読まれるべきものではないかと感じた。いずれにしても、次の作品を期待させるだけの何かを持った作家である。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

honya@kotonoha-shorin.jp
Akiary v.0.61