積ん読雑記

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2009年10月12日(月) 「教科書の定番」にふさわしい小説(No.47)

中島敦『山月記』(新潮文庫「李陵・山月記」所収)

数回前のこの雑記で中島敦を取り上げたばかりでまた同じ作家となるが、別に中島敦に急に入れ込んでいる訳ではない。たまたま『山月記』を読む必要があったため、ちょうどよいのでここでも書くことにした。しかし、中島は何度でも話題にする価値のある作家ではある。
ご多聞にもれず、この「教科書の定番」小説を私は高校の授業で初めて読んだ。印象にある作品なのだが、人間が虎になるという話だけが記憶の大半を占めていて今までよく理解していたとは言いがたい。今回再び接する機会を得て、少しもこれを読みきれていなかったことをあらためて知らされた。並外れた才を有するが、それを活かしきれなかった李徴の悔いある人生、親友・袁傪との出会いにより交わされる心情の吐露。そこから汲み取れる主題は深くて重いが、読者によって案外さまざまな受け取り方があるように思える。私にはこの作品には知識人の哀愁、己を理解しない世間(大衆)への憤りと諦めが見事に描かれていると感じられた。漢学者の祖父や漢文教師の父を持つ一方、中島自身も極めて高いレベルの教養と知性を身につけていた人物であることも、これを解するうえでの要点のひとつではないかと考える。
自身の至らなさを省みながらも友に自作の詩篇を聞かせる李徴。
そこには虎の身になりながらも、なお世の中に己の才を認めさせたい李徴のあきらめきれない無念さが読者の胸を打つ。しかし、そのふっきれない心持ちこそが人間に戻れない李徴の運命の因となっているのではないだろうか。
袁傪は李徴の自信の詩を聞いて思う、「素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか」。李徴の何が袁傪にそう思わせるのか?著者が読者に突きつける問いでもある。
日々、人間の心を取り戻す時間が少なくなっていくことへの恐怖は誰にもわからない、と李徴が言う部分では、レーガン元大統領がアルツハイマーであることを告白し、徐々に自分の記憶が薄れていくことの恐さを語った報道を思い出した。自分が自分でなくなっていくことを自覚しつつ時が経過していく時、人間はどういう思いにかられるか想像を絶するものであろう。
『山月記』という題名がとても良い。虎の字を用いたり、カフカの『変身』のような直截なことばを使うよりは、このポエティックな名前が非常に好感を持てる。
ひとつだけ気になったのは、李徴と袁傪の再会があまりにも唐突であること。主題上はあまり問題はないのだが、出会いの場面をもう少し巧みな設定にすれば、物語のふくらみが出たのではないかというのが、不肖小生のつまらない意見であるのだが。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

honya@kotonoha-shorin.jp
Akiary v.0.61