積ん読雑記

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2009年12月30日(水) 日本語が必要でなくなるとき(No.49)

水村美苗『日本語が亡びるとき−英語の世紀の中で』(筑摩書房)

 父親の仕事の関係でニューヨークに移り住んだものの異国の生活になじめず、ひとり日本文学全集をひもといていた12歳の少女は今、気鋭の小説家に成長した。その水村美苗が憂う日本語の現状と行く末について世に問うた注目すべき著作である。ショッキングなタイトルからして興味をそそられる本でもある。本書の意義は、今巷間でよく話題になる「美しい日本語」とか「正しい日本語の使い方」とかに言及しているのではなく、文化の下部構造としての言語である日本語の存在そのものを論じており、言語表現のテクニカルな面ではないより本質的な主題を読者に投げかけている。今、私たちはビジネスでも、趣味においても英語の圧倒的な力を否定できない。米国のセールスマンが日本に自社製品の売り込みに来た場合でも、顧客であるはずの日本人が平身低頭、汗を拭き拭き得意でもない英語で対応する様は本来主客転倒である。しかし、そこは世界の「共通語」英語のもたらす神通力。仕方のないことなのか。
 水村は世界の言語を、@普遍語(世界語/universal language)A現地語(local language)B国語(国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉/national language)に分類する。そして現在唯一の普遍語たる英語とその他の言語との非対称性を論じる。「世界でもっとも尊敬されていた」フランス語でさえも今やその地位はあやしくなっている。いわんや極東の一方言である日本語をや、である。著者は「書き言葉」と「話し言葉」を本質的に異質と見なしており、「話し言葉」としての日本語は生き延びるであろうが、<叡智を求める人>が世界に向かって自らの思想を伝える言語として、果たして日本語はどこまで有効であるのか。ここに本書の核心があると私は理解した。千年を超える時を通じて日本人は日本語で思考し、書き、伝えて来た。しかし、グローバル化とインターネットに代表される伝達手段のボーダーレス化の荒波は、いやがうえにも永遠の存在であるかに思えた日本語にも押し寄せて来ている。英語という(世界的に影響力があるという意味での)突出した言語にどのように向かい、日本語をどのように位置づけていくのか、これは火急の課題であるかもしれない。
 本書は至る処に見事な指摘を見つけることができる。その一例を紹介しよう。
 「翻訳の本質は上位のレベルにある言葉から下位のレベルにある言葉への叡智や思考 のしかたをうつすことにあった」。翻訳という行為は相互作用を伴うが、元来は言語 の力関係の所産であるという点に私は目からウロコであった。
 
 バイリンガルあるいはトリリンガルである水村が、日本語に対する危惧とそれへの対処を論じるところに一層の真実味と説得力が感じられる。

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