積ん読雑記

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2010年2月7日(日) ペテルブルグの寒さよりも厳しいこの小説が問いかけるもの(No.52)

ゴーゴリ『外套』・・・・・・岩波文庫『外套・鼻』(平井肇 訳)所収

下級官吏であるアカーキィ・アカーキエヴィッチは来る日も来る日も書類作成の仕事をこつこつとこなしていた。それも上官などから廻ってくるものを清書するだけの単純な仕事である。彼の毎日は役所と、帰りを迎える者のない寂しい自室との往復で、質素そのものの生活でもあった。享楽に耽ることもない。しかもその「精励恪勤(せいれいかっきん)」に達するには程遠い余りにも低い報酬に対しても不満のひと言を言うでもない。彼を軽んずる職場の人間たちからのいじめや蔑みに気を留めることもなく、与えられた仕事を忠実に遂行して行く。その彼でも余りに悪戯が過ぎて肘を突っつかれた時は、「構わないで下さい! 何だってそんなに人を馬鹿にするんです?」と相手の胸に滲み入るような独特の異様な響きをもった抗議を行った。彼をからかおうとした新人官吏が、普段は想像も出来ないアカーキィの反応にどれほど仰天したかは、その愚かな行為が生涯に亘ってその若者の心の奥底に苦い想い出を植えつけたことからも窺える。しかし、その逸話は例外中の例外であって、アカーキィは職場で揉め事を起こすこともなく、平凡な毎日を過ごしていた。世の多くの無名の人たち同様、あのいまわしい出来事がなければ、つましくも本人にとってはきっと幸せな人生を全うしたことだろう。彼の住む厳寒の地、ペテルブルグにおいては必要不可欠の着古した愛用の外套がある日、とうとう使い物にならなくなってしまう。そして工面して彼には生涯最大の買い物とも言える素晴らしい外套を新調したが・・・・・・。
 ゴーゴリにより1840年に書かれ、平井肇により昭和12年(1937年)に訳された作品にも関わらず、この小説は古さを全く感じさせない。勿論、19世紀のペテルブルグの生活描写や訳語表現には時代性を感じさせるものの、人間の本質を解いた主題は今も読み継がれているに相応しく、時代を超えて私たちに迫ってくる。社会体制が異なっても、経済がどれほど発展しても、人間は何の進歩もなく、いつの時代でも同じ過ちを繰り返している。ゴーゴリはそんな人間や人間社会のはかなさを冷徹に表現している。ここには今私たちが直面する“いじめ”の本質が語られているようにも思える。人間の愚かさ、弱さこそが他人への“いじめ”という行為を呼ぶのかもしれない。現代日本の主題として読むに値する作品である。
 「われわれは皆ゴーゴリの『外套』かの中から生れたのだ!」とドストエフスキーに言わせたロシア文学の原点とも言える知る人ぞ知る名作であるが、シリアスなテーマながら、ゴーゴリのどこかユーモラスな描写が読者には救いでもある。

2010年2月28日(日) 小説という形での「迫り来る戦争」論(No.53)

三崎亜記『となり町戦争』(集英社文庫)

文庫本裏表紙のキャッチコピーには「見えない戦争を描き、第17回小説すばる新人賞を受賞した傑作」とある。この作品の新人賞受賞には全く関心はなかったが、『となり町戦争』という風変わりなタイトルは以前から興味を惹かれていた。また、複数の人からこの本についての話題を耳にすることも再三あったので読まなければと思いつつ、やっと最近になってそれが実現した。しかし、正直言えば、この小説の前半にはイライラさせられた。「僕」の住んでいるある地方のある町が、ある日突然、となり町との戦争を始めることを「僕」は町の広報誌によって知る。開戦日、戦争の実態を把握するべく「僕」はいつもより早めに家を出て会社に向かったが、町の様子はいつもの朝と違わない。「僕」には戦争という実感が全く湧いて来ない。広報誌に載る戦死者の数が「僕」の中で戦争の影を落とすものの「となり町との間にどんな確執があるのか。何を求めて二つの町が戦っているのか。いったいどこで戦争が行われているのか」主人公は何も分からないのである。
そして読者である私にもこの小説を読みながらリアリティーが全く浮かんで来ない。まさにそこに私をいらいらさせる原因があった。決して小説にすべてリアリティーを求めるつもりはないのだが、少なくともこの作品に限れば戦争という舞台設定をしながら、その戦争の実態をベールに包んだごとく主人公にも読者にも明らかにしようとしない。
しかし、読み進むうちに作者は意図的に「戦争」の姿を隠そうとしていることが分かって来る。そこには作者による用意周到な仕掛けがあるのである。その真意を知るに及んで、いらだちは解消させられた。戦争というものは可視的なものであるという錯覚が私にはあるのかもしれない。戦争は目で見ること(その多くは映像であるが)によって初めて実感を伴うのは、特に湾岸戦争以降顕著である。しかしながら、「戦争」は真の姿を用意に私たちには見せようとしない。それは私たちに気づかないように密かに忍び寄るものである。
「今僕が出遭っている戦いは・・・予測もしなかった形で僕を巻き込んでいる。この複雑化した社会の中で、戦争は、絶対悪としてでもなく、美化された形でもない、まったく違う形を持ち出したのではないか。実際の戦争は、予想しえないさまざまな形で僕たちを巻き込み、取り込んでいくのではないか」。「戦争は、日常と切り離された対極にあるのではなく、日常の延長線上にある」。戦争という自覚もないままに、私たちはいつしか戦争の渦中にいるのかもしれないのだ。1970年生まれで戦争には全く無縁であるはずの作者の想像力が見事なまでに炸裂している。三崎亜記の意図をどう読むか、読者の想像力が試されている。


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Akiary v.0.61