積ん読雑記

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2010年4月13日(火) 漱石にいざなわれる夢の世界(No.55)

夏目漱石『夢十夜』・・・新潮文庫『文鳥・夢十夜』所収

明治41年(1908年)朝日新聞に連載された小説であり、10編のうち4編は有名な書き出し「こんな夢をみた」で始まる。本編に限らず、漱石のいくつかの小説、例えば『吾輩は猫である』や『草枕』などの冒頭の文章は、たとえそれを読んだことがない人でも口をついて出て来るほど私たちの記憶にしみこんでいる。日本において人々の心にこれほど根づいている作家は漱石をおいて他にないだろう。
10編はいずれも文庫本にして3〜4頁の短篇から成っているが、どの作品もそれぞれに特長があって、実際の分量以上に話の広がりがあり、読み手に深いインパクトを与える。夢の不可思議さを文字に表し、読み手にそれを共有させるという至難の業を事もなげに行ってしまうのも漱石にしか出来ないことかもしれない。
夢のおどろおどろしさや不可解さを辿れば、この連作は人間の「原罪」や漱石の深層心理、潜在意識を具象化していると言えなくはない。しかし、その点を過度に重視してしまうと心理学者や精神科医などのよくある「専門的分析」の恰好のネタになってしまう気がする。
そうしたステレオタイプの分析は私には飽き飽きである。作者の心理を正しく分析し得たとしても、それによって読者が作品から何を得るかには繋がらない。読書は作者の人物研究をすることが目的ではない。そのような職業的な分析におつき合いする必要は全くないのである。従って漱石が見たという「夢」に必要以上にこだわるとこの作品をゆがめることになりはしないだろうか? 勿論、10話はそれぞれに実際に見た夢がモチーフになっているであろうことは否定しないが、そこには漱石の創作力を多分に加わっていると考えるのが自然ではないか。朝日新聞からの依頼に応じて書いた短期の短篇連載小説とは言え、漱石の(夢あるいは無意識な要素だけでなく)意識的自覚的な思想もまた、ここには反映されていると思われる。
明治の知識人としての苦悩は生涯を通して漱石に課されたテーマであったが、この作品においても日本の近代化と、それを担う知識人の重圧感が見え隠れする。
第一夜の「百年待っていて下さい」や第三夜の「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」と、「百年」がキーワードになっている点に注目した。これは漱石の中に日本の近代化を百年の大計で見通すスケールの大きさがあったことを示しているのではないだろうか? そして各編に現れる不可解な出来事は近代化を背負う自身の立場を自覚した漱石のジレンマと焦燥感を夢の形で隠喩したのではないかと読み取れるのだが。

2010年4月30日(金) 子どもの本に見る世の中の真実(No.56)

バージニア・リー・バートン文・絵、石井桃子訳「ちいさいおうち」(岩波書店)

〜その昔、美しい自然がいっぱいの丘の上に小さいけれどきれいでじょうぶな家がたてられました。その小さい家をたてた人は「どんなにたくさん おかねをくれるといわれても、このいえを うらないぞ。まごの まごの そのまた まごのときまで このいえは、りっぱにたっているだろう」と言いました。いつしか時がたち、その家の周りには道路ができ、人も車も増え、電車がとおり、大きなビルが建つ中、小さい家は誰からも忘れさられ、きれいな姿もすっかりみすぼらしくなってしまいました。小さい家は、こんな所はいやだと思い、幸せだった遠い昔のいなかの生活の夢を見ました。ある時、家を建てた人の、孫の孫のそのまた孫に当たる人が大きな街にひっそりと佇む、その小さい家に気づいてくれました。その家はじょうぶで、お化粧をし直せば今でもりっぱな家になるのでした。多くの街の人たちに見送られ、その家は昔のような美しい丘の上に引越し、りんごの木や小鳥たち、星や月たちに囲まれた、夢に見た幸せな毎日がまた戻って来ました〜
 子ども向けの本は当然易しいことばで表現されなければならない。どんなに深淵なテーマでさえも分かりやすく語られなければならない。本書は簡潔なストーリーであるにも関わらず、深く壮大なテーマと心温まる内容は、大人が読むに値する本でもある。
先日亡くなった井上ひさし氏の座右の銘が、阿刀田高氏やジャーナリスト・田勢康弘氏らの追悼談話の中で紹介されていた。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに 書くこと」。“むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく”はまさにこの本にふさわしいことばである。易しい表現と「絵」という手段で感性に直接訴えかけてくるこの本は、私たちが忘れていた何かを一人ひとりの心のうちにきっと思い出させてくれることだろう。
この本の翻訳初版が1954年だということに驚きを禁じ得なかった。迫り来る都市化の波や自然破壊は私たちの古くて新しい課題であったことを思い知らされた。
再び安住の地を得た「ちいさいおうち」であるが、そこもまたいつか住みにくい場所になるのは目に見えている。性懲りもない経済社会。しかし、私たちが当事者でないから、そんな夢物語を言えるのかもしれない。私たちにとって便利な生活があるなら、「ちいさいおうち」を犠牲にしないとは限らない。青い海を守れ、緑の山河を大切にしろ、と言えるのは自分とは遠い世界であるからに他ならない。ところが、そんな青臭い主張も決して無意味ではないほど私たちが犠牲にしつつあるものも多い。

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