積ん読雑記

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2010年5月11日(火) 短篇小説の醍醐味(No.57)

川端康成『バッタと鈴虫』(ポプラ社『百年小説』所収)

読み手にとって短篇小説は重宝なことが少なくない。一定の時間内に読み切りたい時などはありがたいと思う。何千枚の長編であろうと、短い小編であろうと、ひとつの物語が完結することに変りはない。どんな短い作品であっても作者の構想する世界が完成される。運悪く退屈な長編小説に出合って読み残りのページの厚みを眺めながら忍耐を強いられることを思えば、短期決戦の如く決着がつく短篇は私たちに少なくとも無駄な時間を強要しない。しかし、読む時間が短いからと言って内容の密度が落ちることにはならない。
『バッタと鈴虫』という掌編小説はそれを証明してくれる。長編小説にも匹敵する味わいを持っている。日常の何気ない風景、子どもたちが手作りの提燈を手にくさむらの虫捕りをしている様子をおとなの目線から掘り下げて、人生や男女の機微までをも語る作者の研ぎ澄まされた感性は作者20代半ばの作品だけに若々しい。この作品に限っては短い作品だからといって軽い気持ちで読めば、とんでもないしっぺ返しを食うことだろう。
心して読めば読むほど濃厚な味を堪能できる短篇である。
川端康成の代表作といえばどうしても長編小説群を思い浮かべるが、これを読んであらためて「掌編小説」の担い手であったことを想起させられた。
時間の合間に読むことが出来るほどの分量であるが、吟味すればするほどいつまでも心に残るであろう隠れた名作である。

2010年5月29日(土) 「もの食う」ことから何かが見える(No.58)

辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫)


今日この頃のテレビで目につくのは、低質な「お笑い」と大口を開けて下品にモノを食らいながら視聴者は決して共有できない「美味」への共感を私たちに強要する低俗さだ。
「笑い」も「食」も人間の原点の行為であるとすれば、そこには必ず一人ひとりの本質も見え隠れする。本能や欲望の行為の先にはどうしてもある種の「はしたなさ」が見えてしまうのだ。
本書は敢えて「食べる」に踏み込むことで、人間の本性に迫るだけでなく、社会のどろどろした情念をも遺憾なく暴き出している。ここに描かれる「食」は、贅沢の果ての余暇としてのそれではなく、生きるために食うという人間の根源的な行為に焦点を当てている。そしてそこから見える人間社会の矛盾をジャーナリスト
ならではの視点で探っている。著者は文庫本あとがきで「本書を警世の書という人もいたけれど、警世も警醒も憂国も、残念ながら、もともと私の分ではありえないし、それらの言葉は私の使用言語の範囲外にある」と述べている。しかし、私には「食」をファッション化してしまった飽食の国の民への怒りのメッセージと映ってしまう。
この本には匂いがある。それはミシュランガイドに載るような「名店」の食欲をそそる匂いではなく、饐えた臭い、かび臭さや生ゴミの臭気を思わせる。行間から立ちのぼってくる不快な刺激にむせびながらも、活字を追う目は躊躇することなく先へ先へと私を促す不思議な味のルポルタージュだ。アジア、ヨーロッパ、アフリカの人々の食を通して今の世界や歴史の有り様まで照らし出してくれるこの本は、著者の自虐的とも言える緊張感のある「現場」取材の賜物であろう。
「食べる」ではなく「もの食う」ところにきれいごとではない人間の生きるための根源を見出すことができる。しかし、結局は著者も帰り着く先は飽食の国である。私が全編を通じて感じる著者の苛立ちや諦念は著者自身に向けられているのかもしれない。

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Akiary v.0.61