積ん読雑記

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2011年6月10日(金) 気負いを衒いもない文章の上質な物語(No.67)

井上靖『しろばんば』(新潮文庫)

伊豆といえば、温泉が点在する温暖な観光地という印象が強い。井上靖『しろばんば』(新潮文庫)はその伊豆を舞台とした洪作という少年が主人公の物語である。時代設定は大正四、五年であるというから今の伊豆とは歴然とした違いがあるのは当然であるのだが、ここに登場する伊豆がローカル色の強い土着的な土地柄であることに、陽光豊かで風光明媚な所とは異なるもうひとつの伊豆の顔を見るようで興味深い。幼くして曽祖父の妾・おぬい婆のもとに預けられた洪作は両親や弟・妹とも遠く離れ、曾祖母や祖父母たちが住む本家(上の家)とも隔離された土蔵(お裏)に住んでいる。洪作には傍から見るよりは土蔵での生活は決して居心地が悪いものではない。おぬい婆の庇護の下、伊豆の自然の中でおおらかに育つ少年。
しかし、父が軍医で、伯父が校長の家系であってみれば、伊豆湯ヶ島の片田舎とは言え、洪作も一族の期待を背負った選ばれし子どもであった。因襲と微妙な人間関係が交錯する環境の中で日々成長する少年の姿は頼もしくさえある。豊橋や沼津など外の世界と触れる中で少年の目が広く社会へと注がれていく様子がごく自然に書かれていて好ましい。
少年の成長の過程で必ず遭遇する、人間の死、愛そして異性へのあこがれ、それらが清々しく語られている。あるいは、やや綺麗事に偏っていると思われなくもないが、皮相な青春小説でもなく、陰湿な成長物語でもないところに本作品の真価がある。
「おぬい婆さんはこの世から突然姿を消してしまったのだ。さあ、これから、自分はひとりだ!と、洪作は思った。父も母も弟妹もあったが、しかし、それとは別に、洪作は自分がこの世にひとり取り残されてしまったような気がした。そして、それと同時に、これは全く予想もしていなかったことだが、やっとのことでこれでひとりになれたといった開放感もあった」。不安と希望が入り乱れる少年の心情が丹念に描かれている。そして少年のその後人生についても読者に想像力を抱かせる。
作者の自伝的小説とされるが、全編に亘って物語が実に自然な流れの中にある。自らの幼少の記憶を掘り起こすとすれば、幾分かは肩に力が入るものと思うが、それを全く感じさせない文章にこそ偉大な作家たる所以が感じられる。作者にとって、これは最も愛着のある作品のひとつであったにちがいない。

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Akiary v.0.61