積ん読雑記

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2011年7月27日(水) 「初期・大江」作品はやっぱりいい!(No.68) 

大江健三郎『飼育』(新潮文庫「死者の奢り・飼育」所収)

大江健三郎を熱烈に評価する人がいる一方で、敬遠する人も少なくない。後者はおそらく1970年代以降の後期・大江を読んで、その馴染みにくい文体に辟易するのだろう。あるいはノーベル賞作家という期待をもってそれまで目にしたこともない大江作品に接して消化不良を起こす俄か読者もいるのかもしれない。
大江の殊に小説を取り上げるならば、全く異なる二つのスタイルに遭遇する。ある時期から明らかにその文体に潮目が変わったことは衆目の一致するところだろう。その分岐点は『個人的な体験』だろうか。外国文学(特に原書)の読書体験からの文体への影響、さらに政治・社会的要素が主題の設定に果たした役割などの外部要因を指摘する向きを確かに否定することは出来ないが、私小説である『個人的な体験』に著しているように身の回りの出来事こそがこの作家の行く道を決定的なものにしたとも言える。『われらの時代』(新潮文庫)のあとがきには自ら「牧歌的作家への歩みを忌避する」旨を述べているが、その前後の「個人的な体験」は大江のより個性的な文体と主題を編み出すことになった。しかし、個人的な嗜好で言わせてもらえるならば、僕は断然に初期作品の方を好む。芥川賞受賞作『飼育』を読めば昨今の同賞受賞作のいずれにも優っているばかりでなく、同じく当時の学生作家による『太陽の季節』をも明らかに凌駕している。後年の『万延元年のフットボール』以降しばしば登場する「森の奥の谷間の村」を思わせる「僕らの谷間に傾いた山腹の村」にある日、敵国の飛行機が墜落した。捕虜となった黒人兵。その処遇について県庁からの指令が来ない中、主人公の少年らはいつしか黒人兵と「《人間的》なきずなで結びついていたこと」きづくのだった。「空襲で焼けた県庁のある市」よりも「僕らの村には熱い空気」が立ち込めていた。しかし、孤立したような谷間の村にもいずれ県庁の指令が届き、捕虜を移送する時がきた。その過程で起きる事件。主人公の僕は黒人兵の手に落ち、捕虜となった僕。言葉は通じないが束の間の連帯感から、いきなり元通りの敵に変身した黒人兵。僕を助けようとする父親や村人たち。気がついたとき、僕は重傷を負い、寝かされた部屋の窓からは厭な臭いがした。僕には「その臭いの意味がわかったが哀しみは湧かなかった」。そして「僕はもう子どもではない、という考えが啓示のように僕を」満たした。
戦時下とは無縁の平和な村に突如闖入した黒人兵との束の間で奇妙な熱い日常と意外な結末。少年の目を通して人間社会の閉鎖性を問いかけていると思われる。近年の大江しか読んだことのない人たちには是非読んで欲しい作品のひとつである。

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Akiary v.0.61