Azuki堂だより

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2009年3月3日(火) 雛祭り

♪♪
あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り

 今日は桃の節句・雛祭り。我が家ではこの30年来、お雛様を飾るのは私の役目。2月半ばに飾り付け、今日はちらし寿司と桜餅をいただきました。娘二人は独立し、空き部屋がAzuki堂の作業部屋と倉庫になっています。
店主の小学生のころは、男ばかりの三人兄弟なので雛祭りとは無縁で
♪♪
あかりをつけましょ 100ワット
お花をあげましょ 若乃花
五人組の 愚連隊 
今日は楽しい 殴りこみ

など戯れ歌を歌っていたことを思い出します。

お雛様は節句が終われば早々としまうのがよいとされているそうで、いつまでも飾っておいてはお嫁に行くのが遅れるとか。明後日ごろには(片付ける?)・・・。

(祭りの日が過ぎた後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形にカビが生えるから、というのが理由だとされる)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年3月5日(木) 屋号について

 屋号のAzuki(あずき)堂という和菓子屋さんと間違えてしまいそうな、名前は簡単には決まりませんでした。
 
 古本屋(古書店)を始めようと思ったとき、付けようと思っていた店の名前は
「蒼樹堂」という屋号でした。開店準備を進めながら屋号を決めなければと考えました。ところがいざ「そうじゅどう」と口に出してみると、何やら舌を噛みそうになってしまい、これは(?)だなと頭を抱えました。こうなると頭の中は、いろいろなものがぐるぐる回り始め、楽しく弾むのがいいなと「らんらん堂」「らんぷ書林」「らんぶる堂」、沖縄の本を扱うのだから「池原書林」(池原は沖縄・首里生まれの母方の姓)、「うりずん書林」(うりずんは「若夏」をあらわす)、果ては「ゴーヤ書林」、「チャンプルー堂」など収拾がつかなくなり、混乱の極みとなってしまい、いっそ「落ち穂拾い」「優柔不断堂」にしたらという声も聞こえてきました。
 
 2,3日たってもまだ決まらないところに、たまたま、長女が某コーヒーチェーン店で買ってきたお土産の袋に目がとまったのです。「AZUKI FRAPPUCCINO」とありました。思わず「あずきか」と声を出しました。店主はおしるこ・大福など小豆が入った甘いものには目がないのです。「アズキ堂、あずき堂・・・・・」と繰り返し、「『あ』からはじまるな、ネットで検索したら一番初めの『あ』だな」と浅はかでよこしまな考えを持ち始めたのでした。アルファベットの『A』だとこれも最初の検索になるのではと、さらに舞い上がり「Azuki堂」で行こうと決めたのでした。
 
 ただ「知の愉しみ」を掲げる古書店(ふるほんや)としては何か意味付けをしないことにはと、後付けをかんがえ、和菓子の持つイメージ「しっとりと落ち着きのある」古書店(ふるほんや)を目指すということにして・・・・・・・。

2009年3月12日(木) <政治の幅はつねに生活の幅より狭い>

3月6日の朝日新聞の「天声人語」。小沢一郎秘書逮捕に絡み
「前略<お寒い政治の光景である▼「政治の幅はつねに生活の幅より狭い」と作家の埴谷雄高が書いていたのを思い出す。現実は政治の幅を超えて、先をゆく。それは仕方ないとして、膨張し疾走する現実に、今の政治はあまりに狭くて鈍すぎないか。与野党そろっての迷走が歯がゆさに輪をかける▼>後略」

埴谷氏の文章は「実存主義」昭和33年12月号に載った『権力について』という文章の冒頭にある。

「政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、縷々、生活を支配していると人々から錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力を持っているからにほかならない。一瞬の死が百年の生を脅し得る秘密を知って以来、数千年にわたって、嘗て一度たりとも、政治がその手のなかから死を手放したことはない。」(河出書房新社 埴谷雄高作品集3「序詞―権力について」より)

60年代から70年代に青春期にあったものであればどこかで一度は聞いたことのある一節でしょう。あるいは訳知り顔で他者に対して発したこともあるかもしれない。「政治の季節」の時代にはよく知られたフレーズであった。

 また、埴谷氏の『政治のなかの死』に内容を敷衍した文章があります。

「私たちがつねに見ているように、生活のなかにあるものはすべて政治のなかにある。そして、もちろん、常に生活は政治より大きい。いかに強権を隅々まで及ぼす政治といえども、生活がその政治の枠をたちまち越えて拡がっているのを遥か遠くまで眺め渡さねばならないのである。小さな魔法の圏のなかにいる政治は、そのとき、さながら一枚の巨大な拡大鏡をその真近な上に当てるごとく、自身のなかにあるすべてを誇張化して、なにものかを威嚇するように極限までその身を膨らませる。その理由は、政治がただただ生活に支えられているにもかかわらず、逆に、政治が生活を支配していると示したがり、また、自らもそう信じこみたいからにほかならない。」(河出書房新社 埴谷雄高作品集3「政治のなかの死」より)


 うーん「政治の幅は生活の幅より狭い」か。「注文の多い料理店」ならぬ「注文の少ない古書店」の店主はそう唸って、「生活の幅」を拡げるために、ひたすら書籍目録を増やす登録に向けキーをたたきます。

2009年3月19日(木) おくりびと

先週、立川へ「おくりびと」(米アカデミー賞外国語映画賞を受賞)を観に行きました。アカデミー賞受賞候補作ということで前から話題になっていた映画です。平日の午後お昼過ぎの時間でしたが、マスコミで話題になった作品ということもあり、客席は満員とはいかないが、8割がた埋まっていました。自分たちも含め当然ながら?中高年の方がほとんどでした。
映画は、「納棺師」という、人の「死」に際して遺体を棺に納める職業を軸に、ユーモアをちりばめながら、「死」という誰もが避けることのできない普遍的で重いテーマを通して、逆によく生きることとはどういうことなのかと問いかけている様に思えました。
 一人の「死」に家族(夫婦・親子など)・友人がその人の人生とどう向き合ってきたかを、もう一度呼び起こし、「死者」を前に「関係」を振り返る機会なのだということ。

 山崎努、余貴美子、吉行和子、笹野高史などの演じた役もそれぞれの背負ってきた「人生」を耐えながら、かつ、さりげなく見せていたのが印象深く感じました。

 多くの人がこの映画を観たことにより、これからの葬送儀礼の場で、納棺師(おくりびと)に対して人々の関心が高まっていくことでしょう。その一挙手一投足に視線が注がれることでしょう。
 何より、自分、家族そして友人など誰にも訪れる「死」というものをどのように受け入れていくのか考えさせられた映画でした。

 店主は、おそらく、きっと自分は「往生際が悪いだろうな」と、これまでをちょっと振り返り思うのでした。
どのように「おくられたいか」宿題を与えられた映画でした。
 
 「原作」となった「納棺夫日記 増補改訂版」青木新門 著(文春文庫 2009年3月10日第22刷)を近くの新刊書店で購入し、読み始めました。

2009年3月24日(火) WBC優勝戦と正岡子規

WBC(09 WORLD BASEBALL CLASSIC)優勝戦を最後まで見てしまいました。ダルビッシュ(日本ハム)が同点にされた9回などとても見ておれず、干してあるふとんをしまいに2階に。戻ると日本の攻撃に代わっており、サヨナラ負けはなかったのだと一安心。そしてイチローの決勝打。 韓国もよく健闘、見ごたえのある試合だったなと、その昔野球少年であった店主は思いました。両チームに拍手。

 それにしてもなぜ「侍JAPAN」なのか。「原JAPAN」でよかったのではないかと今更なことを思いつつ、仕事(書籍登録作業)に入るのでした。

 野球といえば、たまたま、22日と23日の二日間四国へ旅行。松山・道後温泉。翌日は内子町、大洲市へ1泊2日の駆け足の旅をしてきました。

その旅の中で、正岡子規と文学仲間であった正宗寺住職仏海禅師が子規の業績を記念し、子規が17歳で上京するまで過ごした住居を寺の中に残したのだという市内の「子規堂」を訪れました。

そこに「子規と野球の碑」があり、次のように子規と野球とのかかわりが記してありました。

『 正岡子規は、わが国野球の草創期に選手
  として活躍、明治20年代はじめて
  松山の地にこれを伝えた 最も早くベ
  ースボールの技術、規則を訳述解説し、
  その妙味を強調してひろく世に推称
  「野球」の名付け親と称される また
  短歌、俳句、小説など文学の題材に
  初めてこれをとり入れた 実に子規は
  わが球界の先駆者で在り普及振興
  の功労者である

  打ちはづす球キャッチャーの手に在りて
      ベースを人の行きがてにする

  今やかの三っのベースに人満ちて
      そゞろに胸の打ち騒ぐかな
  (明治31年ベースボール九首のうち) 』

<子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年(1889年)に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。>
<なお、正岡子規が「野球(のぼーる)」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは正岡子規である。>(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 野球に関係のある句や歌を詠み、文学を通じて野球の普及に貢献し、そのことが評価され正岡子規は平成14年(2002年)、野球殿堂入りしている。

 今回のWBCの日本チームの優勝を子規はどのように聞いているのでしょうか。

≪正岡子規、本名正岡常規(つねのり)。松山市生まれ「慶応3年(1867)−明治35年(1902)」≫

2009年3月31日(火) 気持ち新たに

♪♪
春のうらゝの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

見ずやあけぼの露浴びて
われにもの言ふ櫻木や
見ずや夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を
(「花」)

 明日は4月1日、多くの方が新しい学校、新しい職場で、希望と夢を抱き、そしてなんともいえぬ緊張感とともに新たな生活を始めることでしょう。
 新人以外の人にとっても、気持ちを新たに様々なことに向け、歩み始める日です。

 

気候もようやく花冷えを追い出し、春爛漫になることでしょう。

 開店からひと月。開店に際して、多くの方から励ましのエールをいただきました。
Azuki堂店主も、気持ちを引き締めて4月を迎えたいと思います。
改めて、どうぞよろしくお願いいたします。


 (厳しい春を迎えている人もいます。夕刊には非正社員失職19万人とあります。
  早く景況がよくなるよう期待したいものです。)

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Akiary v.0.61